薄紅の花弁がはらりはらりと風に舞う。鮮やかとは決して言えないその花弁は、だけれどどこか華やかで、そして寂しいくらいの哀愁を感じる。それはその花が、別れと出会いの季節に舞うものだからなのだろうか。
SOS団副々団長の朝比奈みくるが卒業して丁度丸一年。同じ季節、同じ日取りの今日、僕たちは自分の卒業式を迎えていた。

「…あの、古泉、先輩」

式が終わって、クラスメイトと他愛もない話をしていたところを背後から呼び止められて古泉一樹は振り返った。振り返った先には小柄な女子生徒が一人。先輩というからには彼女は後輩らしい。さて、何の用だろうと疑問に思う間もなく隣にいたクラスメイトにため息を吐かれた。先行ってるからな、という言葉に軽く侘びを入れて後輩の女子生徒に向き直る。用件は、と問うまでもなかった。彼女は自分にとって本日何人目かの客人なのだ。予想はついた。



























桜舞う卒業式。はしゃいだり泣いたりしている生徒の塊から少し離れた場所に、顔はアイドル並みに整ったSOS団副団長を見つけた。しかも下級生らしい女子と何やら話し込んでいる。相手の女子の顔は記憶にない。まあ俺の貧弱な記憶力などあてにならないが、それでもSOS団で関わったことはなかったと思う。では古泉の知り合いか。あり得る。三年も一緒にSOS団なんていう意味不明団体に同じように所属していたくせに、俺はあいつの過去だとか、家族だとか、古泉一樹を形成するに至った過程を全く知らない。俺が知ってるあいつの側面なんて氷山の一角―――――いや、それよりもよっぽどちっぽけじゃないか。
そうだな、今古泉の目の前にいる下級生が『機関』の関係者でも俺は驚きはしないさ。生徒会長以外に『機関』の関係者がいたっておかしくはない。
ただ、これはそれよりももっとわかりやすい場面だと予想がついたので、その考えを俺は却下した。
これはあれだ。廊下や通学路ですれ違うたびに憧れていた先輩に最後のチャンスとばかりに告白する下級生。そっち方面とは全く関わりのない俺でもわかるさ。
しかし桜の花弁の舞う中で、可愛い下級生から告白だなんて、少女漫画を地で生きてるような奴だなとは思った。同じ世界に生きてる人間とは思えん。
そんな莫迦なことを思いながらついついその現場を見つめていると、ふと古泉の琥珀の眸がこちらを向いた。

遠すぎるのになぜだろう。
目が合ったと、思った。

下級生の言葉に二三何か古泉が返したと思ったらその子はわっと泣きだしてしまった。しかもその子を気遣うでもなく軽く礼をしただけで古泉はその場を離れてしまう。おいおいそれはないんじゃないかと思ったが古泉は振り向きもしない。
今度はしっかり俺に視線を向けてこちらに歩いてきた。

「…礼節正しい古泉一樹のやることか?」

声が届く位置まで待ってそう言ってやると、古泉は動じることもなくいつもの笑顔を浮かべた。
「礼節正しいのと女性に半端に優しくするのとは意味が違いますよ。恋愛否定派の涼宮さんにはご賛同いただけるかと思いますが」
「そう言うからにはやっぱりそっち方面の呼び出しか」
やはり予想は間違っていなかったらしい。俺の言葉に古泉は頷いて、釦を欲しいと言われました、と自分の胸元を差した。
卒業式に好きな人から釦を貰うってのはよく聞く話だが、学ランの場合は第二釦、ブレザーの場合は心臓に一番近い第一釦がその役目を果たすらしい。この情報は勿論谷口から得たものだ。あいつは予約を受けたわけでもないのに第一釦の糸を緩めてきたと言っていた。
「あげなかったのか?」
聞けばあの下級生は一人目ではなかったらしい。それなのにいまだに釦がすべて残っているということは彼女たちの申し出をすべて断っているということである。谷口が聞いたら怒り狂いそうな話だ。
古泉は苦笑してええと頷いた。
「釦が一つ欠けていることで涼宮さんになんらかの心理変化が――――ああ、この場合は恋愛感情ではなくSOS団の副団長として、ですが。ともかくその事によりSOS団より恋愛ごとにうつつを抜かす僕を彼女は赦すだろうかと思ったんです」
だから釦を渡すのはお断りしたんですよと古泉は言った。
「ハルヒがそれで怒るかよ」
あいつは一見人様の迷惑も顧みないような暴挙を自らやってのける奴だが、別に常識がない奴じゃない。そりゃあちょっとばかり非常識パワーを持っていて、鬱憤晴らしに灰色の空間なんか作り上げていかつい巨人を暴れまわらせたりもするが、一年の頃に比べればその空間の発生率は格段に低くなった。―――――というか、二年の終わりを境に発生していないと古泉は言っていたな。それはつまりハルヒの精神状態がとてつもなく穏やかであることを示す。
それは古泉、お前が一番わかっているはずだ。
「念には念を、ですよ。彼女の精神状態が安定するための努力は惜しみません」
それはよくわかっている。
古泉一樹って人間は、そうやってずっと涼宮ハルヒのそばに居続けたのだから。お前のそういう自己犠牲的な面は大嫌いだったけどな。
「自己犠牲的ですか」
「違うのか」
「あなたの洞察力を前に否定の言葉など口にできませんが…、そんな風に思われていたとは意外です」
古泉は笑う。俺の洞察力がどの程度のものかはわからんが、お前の胡散臭さはわかりやすいんだがな。
「あげたかったやつとか、いなかったのかよ」
一瞬古泉が虚をつかれたように目を見開いたので、釦、と古泉の胸元を示した。申し出てきた女子の中にいなかったならまだしも、もしその中に本命がいたのならお前は本当に莫迦だぞ、古泉。だが、古泉は苦笑して、いませんよ、と笑った。しかも。
「僕は見ず知らずの方に自分の所持品を抵抗なく渡せるほど心は広くありません」
なんて言いやがった。世の古泉ファンが聞いたら卒倒しそうな台詞だ。王子様な外面からは想像がつかない。注意するように言ってやると、あなたにしか言いませんよ、と古泉は言った。あなたはおわかりでしょうから、と。
にこりと笑む古泉に俺は片眉がひくりと動いた。
何をおわかりなんだか俺にはさっぱりだ――――と言いたいが、なんでだろうな。古泉の言いたいことはわかる、気がした。

薄紅の花弁がひらりと舞い落ちるのを琥珀の眸が追う。花びらは俺の肩口に舞い降りて、それを認めた古泉はふわりと笑った。
「――――――そうですね。あなたにだったら、捧げてもいい」
唐突な言葉に一瞬何のことだか俺はわからなかった。
は?と聞き返す俺に古泉は釦ですよ、と俺の肩口に舞い降りた花弁を拾い上げて言う。

「……釦って…なくなるのが困るんじゃなかったのか」
「そうですね、ではトレードはどうですか」
「トレードしてどうする。大体釦を付け直すのが面倒くさい」

俺の言葉に古泉は芝居がかった動作で残念です、と肩を竦めて見せた。どこまで本気だったのか図りかねる。ただ、残念、という割には全く執着を感じない声だった。
指先に摘まれていた薄紅の花弁が、風に乗ってふわりと舞う。散る花弁に混じるそれを、また琥珀の眸が追いかける。
残念、と言ったその眸はもう俺を見ない。
残念と言ったくせに。それは、弱い風にもふわりと舞い散るこの花弁のように、柔らかく、簡単に飛んでいってしまいそうなほどの―――ないも同然の執着のようで。

――――胃の底に、冷えた鉛が沈むような心地を覚えた。

いつかそうやって。
仕方のないことだと諦めて。

俺との、こんな些細な出来事の一つも、なかったことにするんだろうか。

そう思うのと、右手が空をかくように伸びるのは同時だった。
「………っ」
古泉の、襟口までしっかり締められたネクタイを無遠慮に掴んで、引っ張る。整った顔が一瞬顰められて息を詰めるので、ああ首を絞めてしまったかもと思ったが知ったこっちゃない。
「古泉」
「は、い?」
「…これなら」
交換しても構わない。臙脂色のタイを指して囁いた。

いつか古泉が、この舞い落ちる花弁のように。
簡単にこの小さなつながりを手放してしまうのだとしても。

どうしてもそれを許してやる気になれない。

泣けばいい。

この卒業式も、野球の試合も、孤島で過ごした夏も、終わらない夏も、文化祭も、全部。
どこかで繋がりを思い出して、懐かしんで、忘れられないのだと泣けばいい、古泉みたいな莫迦は。

だから、トレードしてやろうじゃないか。このお前と違って年中緩めっぱなしだったタイでよければな。

琥珀の眸を覗き込むと、古泉は一瞬目を見開いて。
だけど次の瞬間には笑顔だった。

「では、そのように」

答える言葉は俺にしか聞こえないような囁き声だ。
男同士でこんな少女趣味なことして何が楽しいんだろうね。多分傍から見たら果てしなく「気持ち悪い」だろうよ。
それでも。

古泉の、氷山の一角にもならない心の一面のどこかに、その臙脂のタイが少しでも引っかかるなら。
それでいい。

舞い落ちる花弁をまた目で追いながら、俺はそう思った。

...080818