短く開けた窓の隙間から、ほどよく陽光に暖められた微風が入り込んで、頬を撫でていく。つい先日まで湿り気を帯びていた空気はその役目を終えたようにカラッとしたものへと変わり、日光はこれからどんどんその強さを増していくだろう。今は丁度その境目だ。
まとわりつくような湿気を含んだわけでもない風は肌に気持ちよく、陽は既に中天を過ぎてはいるが、傾く前の陽光は暑くはなく暖かい。それどころか机に伏した己の背にぽかぽかとその暖かさを振りまいてくれている。
そこにパラリと規則正しく流れる紙を繰る音、窓の隙間からもれる遠い喧噪。
うららかな午後ってのはこういうのを言うんだな。平和だ。ああ寝てしまいたい。
思う存分、惰眠を貪ってしまいたい。

「風邪、ひきますよ」

微睡みに身を委ねようと沈みかけていた意識の上から降ってきたのはそんな無粋な一言。弛緩しきった身体になんとか力を入れてようよう顔を上げると、定位置である向かいの席に座った声の主は、長い前髪を春の微風にふわりと靡かせて当たり障りのないいつもの微笑を浮かべていた。
はて。ここはいつものことながら放課後の部室であるわけだが、今この部屋には本の虫と化した長門と俺しか居なかったはずだ。部室専用エンジェル朝比奈さんは本日はまだ姿を現しておらず、ハルヒはホームルームが終わるや否や教室を飛び出し、それきりだ。故に今現在もの凄く静かで平和な午後を堪能していたはずなのだが。
古泉、お前いつきたんだ。
「僕は先ほど。貴方が気持ちよさそうに寝ていらっしゃったので目を醒まされるまで声をかけずにいたんですよ」
部室に入ったときは普通に───特に音に気をつけたわけでもない───入ったのだ、という古泉の言葉を信じるなら、俺は少しばかり眠りの淵へと旅立っていたらしい。瞼を閉じてるだけだと思っていたんだが…、まあ気持ちよかったからな。確かに。

「暖かいですけどね…油断してると風邪ひきますよ」
「………ついこの間寝込んでた奴に言われたかないな」

眠ることを諦め欠伸をかみ殺して顔を上げる。俺の言葉に古泉は少し目を瞠って困ったように苦い笑いを浮かべた。

「…まだ怒っていますか」
「答える気にもならん」

ああ怒っているとも。そう態度で示すように顔を背け、窓に切り取られた群青を晒す空に目を向ける。
この群青とは似ても似つかない曇天の、あの雨の日。この一年九組在籍の優等生は、思い切り熱を出して寝込んでいてそれを俺は見舞った。SOS団代表として。そこでタイミング悪く閉鎖空間が発生し古泉は自分の使命だからだのなんだのと言って熱が下がってもいないくせにそれの処理に行ってしまった。
そのこともだが、あの部屋の閑散とした生活感のなさとか、それを平気で笑顔で言ってのける古泉の性格の悪さだとか、兎に角あの時は色々と腹が立ったんだ。思い出すとやっぱり胃の奥とかがグラグラ沸き立ってくるような、妙な気持ちになる。けど結局、それをどうにか改善する策を持たない自分自身に一番腹を立てているんだ、俺は。

「それ、数学ですか?」
「ん? ああ」

古泉が俺の手元を差して言う。さっきまで突っ伏していた机には数学Tの教科書とプリントが散らばっていた。
やろうと思って広げたはいいものの、先刻のあの陽気に眠気を誘われてしまい早々に断念した結果だった。

「来週小テストがあって…くそ、さっぱりわからんなこれ」
「涼宮さんに教えて頂いたらいいじゃないですか」
「あいつに? 莫迦言えあとで講義料取られたらどうしてくれる。それでなくとも俺の財布は毎回出費が嵩んでいると言うに」

定期的出費なら兎も角、予定外の出費なんてできるほどの余裕はないんだ俺の財布には。自ら己の首を絞めるような愚行は犯したくない。しかめっ面で答えた俺に少し考えるように古泉は顎に手を当てた。

「では、僕でよければお教えしますが」

古泉の成績がいいのは知っている。転校早々にあった定期テストではロクに勉強する間もなかっただろうに成績優秀者の中に名前を連ねていたような奴だ。そして今俺が取りかかっているのは理系特進クラスのこいつにとっては結構簡単そうな数学Tである。
実を言うと結構アテにしたい衝動には駆られたのだが、そこはぐっと堪えて拒否を示した。
こいつが始終ハルヒに左右される生活を送っているのを知っているし、それ以上に普段はあの突飛なハルヒの要求に応えるべく用意周到に色々手を回すことも惜しまないような奴なのだ。俺に構ってる暇なんかないだろう?
そう言うと、謙遜なのか本音なのかはわからないが、古泉は軽い口調でそんなことないですよ、と笑った。
「友達同士で勉強会、いいじゃないですか。僕にも普通の高校生活らしいことをする権利はあると思います」
「権利って…あのな」
「じゃあこれはどうです? 先日のお詫びということで」
あなたを怒らせてしまったことも、これでとりあえず赦しては頂けませんか、と。薄い琥珀の眸が真っ直ぐ俺の眸を覗き込んでくる。
笑うことなど忘れたというような眸の光に、お前あれをそんなに気にしてたのか、と思った。
気にするも何も事あるごとに持ち出していたのは自分の方なのだがそっちは棚上げにしておく。

「あの、…どうでしょう?」

返事をせず黙り込んでしまった俺に少し不安そうに古泉が首を傾げる。
古泉よ、何度も言うが男がそんな仕草をしたって可愛くも何ともない。
だが…まあ、なんというか。そのいつも如才なく似非スマイルを浮かべる美形顔が、本気で少し焦っているような表情を見せるから。
なんだか少し可笑しく思えてしまって。

気がつけば、じゃあ教えて貰おうかと、そう答えてしまっていた。不可抗力だ。

窓からは遠くで部活のかけ声。そして、静かな部室にパラリとまた、紙を繰る音が小さく響いた。


























際だって高級そうでもない小さめのマンション。その二階に足を運ぶと金属扉がずらりとならんだ廊下に出る。その一番奥のドア、表札に家主の名前は無いがそこが古泉の家だと俺は知っている。
扉の横に設置されたインターホンを押すとドアの向こうで電子音が響いたのがわかった。数秒もせず、というか、瞬く間に金属扉は内側へと引かれいつものスマイルを浮かべた古泉が現れる。ちょっとお前早過ぎやしないかその反応は。
俺の怪訝な視線の意味を理解した古泉は、そろそろ来られる頃だと思ったのでと言い、手で部屋の中を示して言った。

「どうぞ」



あれから、早速古泉に勉強を教えて貰おうと思っていたところでタイミングよく──いやここは悪くと言うべきか──ハルヒが現れた。木造扉を蹴破る勢いで開き現れたハルヒはいつにも増して上機嫌の笑顔全開っぷりで、暖められたはずの背筋にぞわっと寒気が走るのを感じたね。まさかまたこの間のような野球大会に出場させられるのではないだろうな。確かサッカーもアメフトも却下したはずだが。
勿論、このときハルヒが持ってきたのはサッカー参加でもアメフト参加でもなく、全く別のものではあったが厄介ごとには変わりなかった。イエスマンこと古泉はそれを否定する気なんかないわけだし、部室の隅で読書に勤しむ長門は静かにそこに座っているだけで特に 何かを言う気は無さそうだし、この後現れるであろう部室エンジェル朝比奈さんもこの暴走ハルヒを前に意見を言えるかどうかなど予想しなくともわかることだ。
俺以外に誰がこの横暴団長を窘めることが出来るというのだ。
よってその日の勉強はそこで打ち切りとなり──打ち切りも何も最初から手を付けれてはいなかったが──週末に古泉の部屋へと赴くこととなったのである。因みに、部室での勉強時間はハルヒに一蹴の元に却下された。普段から勉強していれば小テストぐらい出来ないわけがないわと同じクラスのハルヒに言われては言い返せる台詞もない。
そんな経緯があって今日俺は古泉の部屋に来ることになったのだ。


一人暮らし用の部屋の広さなんてたかがしれている。男一人が入ってしまえば狭苦しいと思える小さな玄関で荷物を一旦置いて靴を脱ぎ、流し台のある短い廊下を目にして今日は前みたいなゴミがないなぁなんて思っていたら、ふと、思い出したくもないことを思い出してしまった。
古泉の家なんか前に一度来たきりだ。そしてこの狭苦しい廊下で思い出すことなんかそうそうない。というか一つしかない。
何故だ自分、わざわざ今思い出さなくてもいいだろう…っ!
抑えようもなく混乱を始める脳を強制終了させるべく、頭をかきむしりたい衝動に駆られる。そんな俺の挙動不審っぷりに気が付いたのか、前にいた古泉がどうしました?と振り向いた。

「…なんでも…っ」

なんでもも何もそんな顔をしていない自覚はあったので床に置いていた荷物を取るふりをして屈み込みその視線から逃れる。目敏い古泉が気づかないわけないだろうと思ったが、特に言及されることはなく古泉はまた前を向いた。
知らず、安堵の吐息が漏れる。気づかないで居てくれと心底思っていたからありがたいことこの上ない。
だって、なあ。自分で言うのも何だが今俺は酷い顔をしていると思うのだ。つまり、傍から見れば赤いに面と書くあの様相を呈していただろうと思われる。同級生の男の部屋に入って即そんな情けない顔ってのはどういう状況だよ、と自分自身でツッコミを入れまくっていたが原因は一つだ。

あの時の、ことを、思い出したからだ。
しかも思い切り断片的に。

雨の匂いとか、触れた体温の熱さだとか、掠れた声だとか、もっと直接的な事を言ってしまえば吐息とか唇の感触とか…、あの時あいつ俺に…世間一般的に言うところのキから始まってスで終わるあれをしなかったか。
あの時俺の思考回路はその職務を放棄していたし、その後古泉も全くそれについては触れなかったからすっかり頭の片隅に追いやっていたが、今この狭苦しい廊下を見た瞬間に俺はそんな出来れば思い出したくない事実という名の過去を思い出してしまった。

普段から古泉は何気ない会話の中で好きですとかなんとか俺に吐くような男だが、それを本気と捉えたことなんか俺はこれっぽっちもなかった。
だってな、あなたのそういうところはとても魅力的で好感を抱きますとか言われても深い意味で取る方がおかしいだろう?

しかしまさか本気でそういう意味なんだろうか。

一瞬抱いてしまった己の考えに直後俺は全力で否定をした。却下だそんな意見。
喩えあれが世間一般で言うところのキで始まってスで終わるものだとしても、あの時古泉は熱を出して結構思考力は破綻してただろうし、俺が口煩く色々言っていたのをあいつは「黙って」とか言ったからな、多分黙らせたかったんだろ。
そうだ、これが一番正しい。

余計なことは考えるな、というか考えたくない。

ふるりと一度思考を振り払うように頭を振って立ち上がる。屈み込んでからここまで恐らく数秒だ。不審でないくらいの時間を経て、俺はその考えから一切手を引いていつもの顔を保って古泉の後に続いた。



「あまり片付いていなくて申し訳ないんですが…」
客を招いた時に使うありきたりな謙遜の文句を述べて古泉が俺を部屋に入れる。実に古泉らしい謙遜の言葉だ。部屋の中がお前らしさを思い切り裏切ってるがな。
俺は通された部屋を一瞥して息を吐いた。
「古泉、これは片付けたんじゃなくて隅に積み上げただけだと言わないか?」
「ええと…そう、ですね」
にこりと笑った目線が気まずげに逸らされる。
部屋の中は前に来たときとそう大差なく、相変わらず雑多なものが溢れていた。前と違うのはそれがとりあえずといった風に隅に積み上げられているところだろう。クラスの女子が目にしたら幻滅するぞ。
「どうも僕は片付けというものが苦手のようでして」
空いてるところに座ってください、お茶出しますから、と古泉が台所に消える。
言われた通り空いてるとこに荷物を置いて腰を下ろそうと、一応物は溢れていても床が見えないほど酷い有様じゃない部屋を見渡して、気づいた。部屋の真ん中、一番場所を占めている透明色をメインにしたローテーブルに。
─────無かったよ…な、前に来たときは。
こいずみ、と声をかけると台所でカチャカチャと食器の触れ合う音に混ざって古泉の返事が聞こえる。
テーブルのことを問うと、少しの間を置いて、ああと古泉の声が聞こえた。
「勉強するなら必要だろうと思いまして」
そりゃあ机がないと勉強は出来ないが…って、おいまさかこの間決めたばっかりの勉強会のためだけに買ったのかこれを。
ないと困るじゃないですかって、お前、ここで勉強するって決めたの三日前じゃないか?
「機関の仲間に用意していただいたんです。流石にちょっと買いに行く時間がありませんでしたから」
両手にグラスを持った古泉が台所からひょいと顔を出す。
買いに行く時間がなかったって、そんな無理して揃えんでもいいだろうに、職権乱用というか…これも経費で落ちるってことなんだろうかね。
古泉は俺の言葉に否定を示すわけでもなく笑顔を浮かべたままだった。
まあ、『愛媛みかん』とか書かれた段ボール箱が並んでるよりはマシかもな。古泉らしいし、何より俺が笑いすぎて勉強に集中できん。
「どうぞ」
古泉が持ってきたグラスを差し出す。注がれているのはお茶だ、冷たいお茶。
てっきりお茶というから熱いお茶と湯飲みを勝手に想像していた俺は軽く拍子抜けした。部室でいつも朝比奈さんに頂いているお茶が俺の中のお茶のイメージなんだ。文句あるか。
軽く礼を言って、グラスに入ったお茶を一口口にする。明らかに飲んだことのある味が口に広がった。CMも見たことあるぞ。

「…おーいお茶」
「わかりますか」

わかるっていうか一番メジャーなペットボトルのお茶じゃないのか? 因みに俺が初めて飲んだペットボトルのお茶がこれだ。
古泉に朝比奈さんのようなお茶汲みさんをやれなんて言う気はないし、いいのだが――――。
「…なんですか」
眉をひそめた古泉が怪訝な顔をしてこちらを覗き込んでくる。
顔近いぞと言おうとしたが、俺は絶賛吹き出し中でそう出来なかった。
「…っ、や。その。なんでもそつなくこなしそうなのにな、お前」
息をする合間に紛れ込ませるように、やっとのことでそう伝える。
前に来たときは古泉は病人だった。部屋が散らかっていようと片付けれなかったのだろうと思うさ。しかし今日は違う。家事はやらない掃除はできないって随分古泉一樹とギャップがあるじゃないか。
「それは酷い偏見です。僕は古泉一樹である前にただの高校生男子ですよ。高校生男子が家政婦並に家事をできると?」
まあそれはないと思うが、仮にも一人暮らしなんだしできないと困るだろうが。
そういえば鍋もないんだったなと言うと古泉がふと俯いて何か呟いた。
なんだよ、聞こえないぞ。

「鍋、なら…買いました」
「え」
「だから買いましたって!」

気まずそうに顔を逸らした古泉が、テーブルを買うついでにお願いしたんですと呟いた。恐らく機関の仲間に、だ。
なんでまた。必要ないとか言ってたくせに。
「使ってはいませんよ。まだ。でも、その。やはり無いと…」
古泉が逸らしていた顔をちらりとこちらに向ける。言いづらそうに幾度が逡巡して、あなたが怒るのではと思ったんです、と消え入りそうな声で呟いた。
待て待て待てお前はどこの女子高生だ、その言い方は気色悪いやめろっ。
─────…いや、それより…。

「俺が? 怒る?」

その時の俺の顔を表すならまさにぽかんとした表情、だっただろう。
お前が必要だから買ったんじゃないのか? なぜ俺が出てくる。
その質問に古泉は答えなかった。
いいんです、勘違いだと思いますから、と笑うだけで。
その後はもう、何も言わなかった。




安っぽい藁半紙に蛍光灯の白い光を透かす。薄っぺらいプリントは本日古泉宅で大活躍して頂いた数学Tのそれで、今は用紙の隅々にまで数字が事細かに書き込まれていた。問題一つ一つに与えられた回答欄には見事に正答ばかりが、その周りには一つ一つ丁寧な解説付きだ。古泉は説明上手なだけあって解説も完璧だ。
ああ、だけどどうしてだろうな。今それを眺めていてもひとっつも頭に入ってきやしない。
苦虫を噛み潰したような気分で掲げていたプリントを手元に戻す。
古泉、お前が変なことを言うからだ。

あのあと───丁度、プリントの解答をあらかた埋めた頃だ、いつもの閉鎖空間が発生して古泉はそれの処理に向かった。前も古泉の家に居るときに閉鎖空間が発生したなぁと思うとその光景はどことなくデジャヴを感じた。古泉もそうだったのかもしれない。すみませんと、本当に申し訳なさそうに謝るから、ああもういいから行ってこいとしか俺は言えなかった。
まあ今回はあいつは体調不良なんかじゃなかったし、前みたいに止める理由もなかったわけだが。
兎も角、それで勉強会はお開き、俺は帰路についたわけだ。この間みたいに泊まるはめになるまで古泉の帰りを待つつもりはなかったし、古泉自身そうするつもりはなかったようで慌ただしくてすみませんと、最後にまた謝っていた。

あれは、夕食前だった。

俺が家について丁度夕飯にありつけたのだから、あいつも帰ってから遅い夕食をとるのだろう。そうだな、あの買ったって言う鍋を使ってちゃんと簡単にでも夕飯を作って─────そこまで考えて、ああ駄目だ、そんな古泉を欠片も想像することが出来ないと思った。
『使ってはいませんよ』
本人がああ言ってたし、鍋を買ってはみたけれど未だに食事はコンビニ弁当やら総菜やら外食なのかもしれない。そう思うとまた、腹の底で凝る何かがそっと頭をもたげた気がした。

怒る、か。

古泉の言葉が思い浮かぶ。
古泉の家に鍋がないことで俺が怒るとあいつは言っていた。俺はどこの家政婦だ、とツッコミを入れる。だけどその一方であの時俺は確かに怒っていたかもしれないと思った。
鍋がないって、それで生活が成り立つのはホテル暮らしぐらいだ。あいつが、あそこでそんな風に生活しているのかと思うと無性に、腹が立った。
まるで、仮住まいだ。

─────そう、SOS団に属する古泉一樹は仮の姿だと、線引きをしているみたいじゃないか、と。

頭に入らない解説を読むのを放棄してベッドに寝転がる。
天井を仰いで知らず溜息が漏れた。

今腹の底で凝るそれは、きっとあの時の感情に似ている。




週末はあっという間に過ぎ、数学の小テストも先週頭を抱えていたような出来にはならずなんとか及第点を取ることが出来た。因みに付け足しておくと俺の後ろの席、開始数分で既に問題を解き終えたらしいハルヒの結果は満点である。忌々しい。

「それはよかったです。勉強を見た側として結果が出るのは嬉しいですよ」

野菜の皮を剥きながら古泉がそう言って笑う。それを横目に見ながら俺はどうでもいいとばかりに気のない返事を返した。
古泉の解説は完璧だった。あれをなんとか頭に入れてテストに臨めば俺みたいな出来損ないの生徒でもそれなりの点数が取れるってことが証明できたわけだ。谷口あたりは今回だけ平均点以下の仲間から抜け出した俺を恨みがましい目で見ていたがまあ気にするほどのことでもない。放課後の追試、頑張れよと心の中で合掌するに留めよう。
ところで、と古泉が手の中の玉葱を剥きながら言う。
「なんでまた、こんなことを?」
何度目かになる問いに俺は小さく息を吐いた。

小テストを終えた今日、団活を終えた俺はそのまま古泉の家に寄った。そこで何か夕飯を作ろうという話を持ち出したのは他でもない俺だ。理由は一応テストの結果に対する礼と言うことにしておいた。本音は────思うところがあったからだ。
兎も角、疑問符を浮かべる古泉を無視して家に上がり込んで料理を作り始めて数分になる。狭苦しいキッチンに男二人が並んで夕飯の支度ってのははっきり言って地獄絵図だね。潤いがない。その上古泉は無駄に図体がでかいくせに料理に関してはからっきしのようで、きびきび動けるわけでもなくぼうっと突っ立っているのだ。暇そうにしてるならとりあえず野菜の皮をむけと言ったのが数分前だった。
「それはさっき礼だと言ったはずだ」
それに納得していないらしい古泉はそうなんですけど、と皮を剥く手を止める。まあな、いきなり礼だから飯を作らせろだなんて押しつけがましいよな。
「お前が」
「…はい」
「鍋、使ってないって言ってただろ」
コンロに置かれた鍋は傷一つついていない新品そのものだった。さっきまで値札のシールが付いていたくらいだから一度も使っていないのは確かだろう。
「ええそれは…料理が苦手でして」
古泉が苦笑する。嘘ではないだろう。この優等生はどうも家事一般に関しては少しばかり疎いところがある。俺はこれでも両親が仕事などで不在の時には妹のために料理はするし、徹底的に家事をしない古泉よりは料理ができるだろう、恐らく。
だから、
「このままじゃ使わないままだと思ったんだよ、それだけだ」
古泉を見ずにそう言って、俺は切った野菜を沸騰した鍋に入れた。

ところで、古泉は家事一般に関しては疎いと思っていたが、調理技術に関しては思っているほど悪くもなかった。
まあ成績のいいこいつのことだ、家庭科だけ破滅的に悪い成績だなんてことはまずないだろうし、授業中はなんでもそつなくこなす古泉一樹であるからして、それなりに調理技術はあるんだろう。手先が器用なんだろうさ。
それでも致命的な欠陥はあったわけだが。

「おま、だから玉葱はみじん切りにしろって言っただろうが…!!」

俺たちが今作っているのは簡単なスープと残り物を合わせて簡単に作れます的な炒飯だった。まあ、古泉宅の冷蔵庫に残り物があったわけでもないので結局野菜類と炒飯の素を買い出しに行ったのだが、調理してみて初めて知った。
古泉、お前結構大雑把だな。
俺は卵をとく手を止めて皿にうつされた刻まれた玉葱を見つめる。
きちんと切ってあるようで、だがそれはみじん切りと言うには少々荒い切り方をされていた。
「このくらいで大丈夫じゃないんですか?」
「だからあんまり荒いと混ざりにくいんだよもっと細かくしろって! あとそっちの野菜も適当な切り方をするな!」
見てられないと思い玉葱の方は自分で切ることにした。包丁を入れるたびにザクザクいい音がする。ったく、大雑把に切りすぎだっての。ザクザク音が鳴らなくなる程度までそれをきざんでいると、横で古泉が躊躇するように声をかけてきた。なんだよ。
「いえ、その。…泣いて、」
「阿呆見るな! 玉葱きざむとこうなるんだよ!」
「それは知っていますが、…大丈夫ですか?」
知ってるなら言うな指摘するな、くそ、何が悲しくて古泉一樹なんていう得体の知れない超能力者を前に涙を流さにゃならんのだ。俺はなんで玉葱のみじん切りなんて請け負ったんだ。お前がやってお前が涙を流せばいいんだよ古泉。その方が男前が上がるぞきっと。
「それはありがとうございます。因みに貴方は泣かれると少し幼い印象を────」
受けますねなんて言う前に黙れと思い切りその言葉を遮った。
この余計なことしか言わない美形男の口を誰か縫い合わせてくれ、本気でそう思った。


それからなんとか古泉が野菜を刻み直して、夕飯時には食卓に炒飯とスープを並べることが出来た。ごく一般的なそれを──なんてったって市販の炒飯の素を使用した炒飯とただの中華スープだ──一緒に食べて、えらく古泉が感激して食べているのを物珍しく俺は眺めた。
「そこまで感動せんでも」
「いえ、本当に美味しいんですよ。どうしてでしょうね、家で暖かいご飯を食べられるって言うのがこんなに幸せだとは思いませんでした」
随分と大袈裟な言い方だ。背中がこそばゆいだろうが。もういっそ気色悪いからやめろと言うべきかと迷って炒飯を口に運んで、溜息を吐いた。
「古泉」
「はい」
にこっとスマイル0円を体現した笑顔で古泉が返事をする。お前の笑顔は安売りどころの話じゃないなといつも思う。
「自分の家で暖かいご飯が食べられて幸せだなんて、そんな。当たり前すぎることを言うなよ」
古泉の、口に運びかけていた炒飯がぽろりとスプーンからこぼれ落ちる。清々しいほどに古典的だった。何を言われたのか解っていない表情の古泉は、もう一度「はい?」と俺の言葉を聞き直した。
「だから、お前料理が苦手だからとか言ってないで、お前も家で料理でもなんでもすればいいだろう。わからないんなら俺が教えてやる。とりあえずこの炒飯は作り方教えたしな。作れよ、それで食べればいい」
お前がどうして飯を作ろうとしないのかとか、理由はあるのかもしれない。苦手だからとかいう一言じゃ説明に足りないくらいにそれは徹底してる。だけど、そんな風に嬉しそうに笑って食べるなら、作ればいいだろうと思う。
聖書の一節にもあるだろう、求めよ、さらば与えられんとかってな。俺はキリスト教徒じゃないし、お前の唯一神は涼宮ハルヒなんだろうが、あいつはその言葉くらいは尊重してくれると思うぜ。

「だからお前もっと、莫迦みたいに普通に生きればいいだろう」

自分でも料理一つで随分脱線した話をしてるんじゃないかとは思った。だけど、古泉には言いたいことがわかったらしい。
古泉のその、琥珀の眸がすっと冷えた色を灯す。

「全く、どうしてあなたはそう…」

小さく独白のように口にして、だけどその続きが出てこない。
手に持っていたスプーンをゆっくり置いて笑うその顔が、あの時のそれに似ている気がした。笑おうとして笑い切れていない、笑顔。
「正論だろう。文句あるのか」
問うと、古泉はゆっくり首を振った。代わりに、また一口炒飯を口に運ぶ。
ゆっくりそれを咀嚼して。

「おいしいです」

そう言う頃には、もうきちんとした笑顔に戻っていた。ただし、形状記憶型の0円スマイルではなくて、もっと────素の笑顔のような、それに。
それがまた犯罪的に綺麗な笑顔で、一瞬息をするのを忘れてしまった自分を全力で呪いたい。美形だからってそれはないだろう自分、見とれるなら可愛らしい女の子であって欲しい。
古泉から目を逸らし、冷め始めている炒飯を黙々と口に運んだ。
その向かいで古泉は、いつものような長口上は口にせず、味わうようにゆっくりと炒飯を食べていた。







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