殴ろうと思えばできた。
それをしなかったのは────出来なかったのは、それが自分の単なる我が侭だと気付いたからだ。





頭に響く高い電子音が耳元で聞こえる。
浅い眠りから無理矢理引きずり出され寝ぼけ半分の頭で目覚まし時計の音じゃあないなとぼんやり思った。目覚ましなら、けたたましく鳴り始める前に我が妹君が自分の使命とでも思ってるのか人間トランポリンよろしく起こしにくるからだ。今日の襲撃はまだない。
目覚ましとは違う高い音は断続的に流れ、頭に響く。

うるさい。

無意識に手が音の発生源まで伸びて、その形を手の中に納めるやこれまた無意識に指先は慣れた動作で何かのボタンを押してそれを耳元に引き寄せていた。
「………なんだ?」
習慣ってのは恐ろしいな。それが何かもわかっていなかったのに耳に当てた途端携帯電話なんだと理解した。そうしてこんな非常識な時間に電話をかけてくるような奴を俺は一人しか知らない。
我が団長様だろうと思っていた。
耳に押し当てた受話口から驚いたような息を呑む気配を聞き取るまではな。

──────誰だ?

訝しんで眠い目をこすりながら携帯のディスプレイを今更見てみる。
薄暗い中でそれはピカピカ電子文字を光らせていた。
『古泉一樹』と。

途端、冷水を被ったように頭が冴えてくる。

「お前今何時だと思ってるんだ」

名前を確認したとき、画面端に映された数字には04:35とはっきり出ていた。非常識な奴は一人で十分だ。

「─────あ、いえ…すみません、こんな時間に」

俺の非難めいた言葉に返した声はどこか戸惑っているようで、いつものそれと少しばかり違うような気がした。受話口から聞こえてくる音はなぜか少しばかり遠い。外にいるんだろうか。
何やってんだ、と。問う前に苦笑するような気配がした。
「お願いが、あります」
「朝っぱらから電話までしてきて。なんだ」
古泉はいつも品行方正礼節正しくをモットーに──本当のこいつがどうかは知らないが──生きてるような奴だ。こんな時間に電話をかけてくるようなことは今までなかった。よっぽどのことなのか、それともただの冗談なのか。朝っぱらからなんやかんやと変なことに巻き込まれることには御免被りたい。俺はまだ眠い。
俺の心配を余所に、先刻の戸惑い声も気のせいだったのかと思うようないつもの説明口調で古泉は告げた。
「今日、部室に…といいますか、学校に行けなくなりまして。風邪で欠席ということにしようかと思っているんですが、もし涼宮さんがお見舞いにと仰った場合は、それを止めて頂けませんか?」
風邪でもないのに学校はともかくあのイエスマンが部活を休むとは…機関絡みか? と聞くと古泉は肯定の言葉を述べた。
「───熱を出している演技は僕も出来かねますので」
そりゃあな。気分を悪そうには出来ても体温までは偽装できない。そして我が団長様は天上天下唯我独尊に見えてそれなりに良識のある団員思いの奴だ。見舞いと言い出しそうな可能性は大いにある。
「お願いできますか?」
確認するように問うて来る声。
本当は、なんで俺がとか面倒だとかくらいは言ってやろうとは思った。
だけど。
電話越しの古泉の声が、あいつにしては珍しく困ったそれのように聞こえた。いつもはあり得ないくらい余計な感情を含まないくせに。
なんでそんなものがわかるようになっちまったんだかね。不利益にしならないってのに。
「貸し一つな」
不承不承そう言うと、電話越しに小さく笑う声が聞こえた。
そしてすぐにありがとうございます、と。

いつもの嫌味なほどに礼儀正しい爽やかな声が、言った。
































「なんでよ!」
その日の放課後、古泉の予想は的中した。
あいつの頭の回転のよさには平服するな。考え得る全ての事態に備えて対策を練ってるのかと疑いたくなる。本気で。
兎にも角にも、予想通り見舞いをすると言い出したハルヒを俺は今現在部室ドア手前でなんとか押しとどめている状況だった。 物理的に妨害をしておかないとこいつの場合弾丸の如くすっ飛んでいくに違いないと思ったからだ。
目の前ででっかい目を吊り上げて俺を見上げている団長様は外見的には俺より小柄で今は見上げられている状態だというのに、どう考えても見下ろしているような威圧感を放っていた。
くそ、貸し一つだなんて言うんじゃなかった。一つじゃ到底足りそうにない。
「あーだから、見舞いに行くのはやめろって言ったんだ」
「だからなんでよ! 団長命令よ退きなさい!」
理由を聞きながら退きなさいってのはなんだ。退いたら理由も聞かずに飛び出て行くつもりだろうが。
そうは思ったがそんなことにいちいち突っかかっていては話が前に進まない。その内説得も出来ぬままにこいつが一つしかない関門を突破しちまった時には申し訳ないが古泉には自力でなんとかして貰わなければならなくなる。
「朝電話してきたんだよ。大丈夫ですからって」
「それは古泉君が皆に心配をかけないようにって気を利かせてくれたんでしょう?」
どうとでも取ればいい。しかしこれが俺だったらさぼりの口実だのと言われそうなところを古泉に置き換えると簡単に気遣いってものに変わっちまうんだから、やるせないな。これが人徳ってやつか?
「それはそうかもしれんが、そうだったらお前に直接電話をかけるだろう?」
「…それは、そうかもね。なんであんたにかけたのかしら?」
本当だ。言い訳なら自分から直接本人に言って欲しい。
って、まああいつはハルヒ専属のイエスマンなわけだから、そんなことは言えないのかもしれないな。
そんな風に納得しながら頭の片方で必死にいい理由を探す。あいつがハルヒじゃなく俺にかけてきた理由。それを。
「あー…いや、ほら。あいつ一人暮らしだろ」
「確かそうだったわね」
「男の一人暮らしの部屋にってのを気にしたんだろ」
「そんなの気にしないわよ。全員で行くし」
「だから、部屋が狭くなる。それに風邪でぶっ倒れてる奴にこれから部屋を掃除しろって言うのか?」
「古泉君なら掃除する必要もないくらい片付いてそうよ?」
「あいつだからだ。片付いていようがお前が来るなら埃一つの掃除から事前の茶菓子の買い出しすらしそうだって言ってるんだよ」
口にしながら適当に構築していった嘘に、ハルヒはそこで少し考え込む。我ながらうまい嘘だったんじゃないかと思った。あいつの性格なら本当にやりかねない。まあ部屋の清掃状況なんて見たことはないから全くの嘘っぱちだがな。
押し黙ったハルヒは少しの間考えを巡らせ、諦めたようにため息を吐いた。いいわ、やめる、という言葉に俺はなんとか防衛ラインを突破されなかったことに胸を撫で下ろした。のだが。
「代わりにあんたが行きなさい」
「は?」
「私が行ったら気を遣わせるって言うなら、あんたが行きなさい。男なんだから気兼ねしないでしょ」
「…な…それは─────」
文句を言いかけた俺の言葉を徹底的に遮るようにハルヒは「団長の代行だなんて名誉な任務、受けただけでありがたいと思いなさい!」と高らかな声で告げくるりと身体を反転し、俺の指定席の背もたれにかかったままだった上着を無造作に引っ張っる。ああそんなことして布が古くさいパイプ椅子のどっかに引っかかったらどうしてくれる。そんな俺の言葉など完全無視のハルヒはそれを俺に押しつけてにっこり笑いやがった。
「そうと決まったらほらすぐに行きなさい! 今有希に住所メモして貰うから。あと風邪薬は一応持って行きなさいよ。冷えピタもね」
立て板に水の如く次々に指示を飛ばしながらハルヒは背後で静かに本を読んでいた文芸部員の名を呼ぶ。って、長門も言われる前から用意していました的にメモを持ってくるな! 俺に渡すな!
「ここ」
俺のピッタリ一歩手前で足を止めた長門は感情を含まない細い声で短くそう言い、紙切れを一枚俺の手に握らせた。乱れを知らない印刷文字のような明朝体でしっかりどっかの住所が書かれている。なぜだ。指示が来てから書く間の余裕があったように俺には見えなかったぞ。
「おいハルヒ俺は─────」
「今日の部活は特別に早退を許してあげる。古泉君のためだもんね」
行くとは一言も言ってないぞという言葉は強制的になかったことにされた。だからどうしてこいつは人の話を聞かないんだ。
しかもそう言うハルヒの後ろで部室専用エンジェルこと朝比奈さんまでもが部室常備の風邪薬を渡してくれる。特別に許されようが俺は古泉よりもこの方とのお茶の時間を選びたい。心底。

俺の言葉は果たしてどれだけこの横暴が服を着て歩いているような団長と以下二人に届いたんだろう。届いているわけないだろうね。百分の一どころか一千分の一も。
有無を言わせず素晴らしい手際よさで身支度を整えさせられた俺はきっかり1分後には団員の笑顔に見送られて部室を出る羽目になった。ドアを閉める寸前ハルヒがまた何か叫んでいたような気がするが、俺の頭はその言葉を右から左に聞き流していた。いい加減オーバーヒートだ。
誰にも聞き留めて貰えなかったため息を吐いて、俺は長門から受け取ったメモを開く。
廊下の窓から見える灰色の空は今にも雨が降り出しそうで。ひどく、寒々しく見えた。

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