Raison d'etre ( 余話 )

家に着いたのは日付が変わらなくともそれに近い時間で、あたりはすっかり闇に覆われてしまってからだったと思う。時計は確認していないので定かではない。ただ、その時も、雨はまだちらほらと降り続けていた。

「本当に部屋までお送りしなくてもよろしいのですか?」
家のすぐ前に停められた黒塗りのタクシーから、心配気な声がかけられる。運転席に座った初老の紳士という言葉がよく似合う、仲間のものだ。名は新川という。
閉鎖空間を処理した帰りだった。家に戻るのに毎度毎度タクシーを使っているわけではないが、今回は新川さんを始め仲間連中に一喝されてこうなった。
熱があるようなやつはタクシーに乗って帰れ、と。
「大丈夫ですよ」
薬も効いていますからと笑う。
閉鎖空間ではふらふらだったのを仲間に見咎められ、熱があることがばれてからは大変だった。足手まといは大人しくしていろと全員に叱られ、その後は問答無用で機関の息のかかった医療施設で熱を下げる注射をうたれた。一般の診療所でなかったのは、早く、且つ面倒がなく応診を受けられるからという理由でしかない。
ともかく今はその薬も効いていて先ほどまでの嘔吐感を伴うような眩暈はない。
笑って答えると新川さんは少し困ったように眉を顰めた。
「そうであれ、と我々が命じているのは事実ですが、こうも何事もなく笑顔を見せられると複雑な気持ちになりますな」
なんのことだろう、と首を傾げて答える。
新川さんは溜息を吐いてみせた。
「そういう類の顔をされると、大丈夫でなくとも大丈夫に感じられてしまうのですよ」
本心を見せようしない謎の転校生をあなたが演じ切っているのは感嘆に値すると思っています、ですが、と。それなら問題はないし、むしろ褒められるべきことではと思う。仲間にまで必要のない笑顔を見せている理由は、いつでも完璧を目指しているからで、それ以外の理由はない。その方が都合がいいのだ。
「────あなたの、そういう顔を」
チカチカと明滅するウインカーが、目の端でオレンジ色の残像を残す。
新川さんがハンドルに手をかけて苦笑するように言った。

そういう顔を、大丈夫でないと解る人がいればいいですね、と。





弱い雨の中タクシーの姿が道の角を曲がって見えなくなるまでなんとはなしに見送って、自分の部屋へと足を向ける。無機質な金属扉の前で、部屋の鍵を取り出そうとして気づいた。鍵など持ってきていないということに。部屋を出たときはそんなことに構っていられるような状況ではなかった。ドアノブを回すと抵抗もなく扉はすんなり開いて、ああ無用心だなと他人事のように思った。どうかしてる。
入ってすぐの玄関から伸びる、細く短い廊下。
そこで、彼と言い争いを───というほど激しいものではなかったが───してしまったことを、すぐに鮮明に思い出してしまい、先刻までの眩暈が振り返したようにそこに座り込んだ。ひやりとした床の感触が指先から火照った身体を冷やす。雨で身体は濡れて冷えたような気がしていたが、やはり熱は下がっていないらしい。身体の、皮膚一枚隔てた内側に薬で少し鎮静された熱が燻っているような気がした。

疲れた。

そう思うと、動けなかった。
身体が鉛に変質したみたいに重く、息苦しさすら感じる。
吐息すらつけず固まって、廊下の床を見つめていた。
そこで。

「────おかえりさん」

その声を、聞いた。

少し低めの、人を穏やかに安堵させる、そういう声。
聞き慣れた声だった。

嘘だ。
信じられない、と。
確かめようと顔を上げた先でやはり信じられないと自分の目を疑う。
玄関から伸びる廊下の先で、声を発した彼を見つめたまま暫く呆然とし、やっとのことで呟いた。

「まだ、…いらっしゃったん、です、か…?」

見つめた先に、家を出る前に言い争った彼が、何事もなかったようにそこにいた。

「…いらっしゃったんですよ」
自分の言葉を真似て返す彼の片眉が不機嫌そうにひくりと動く。
「お前鍵もかけずに出てけってのか。無用心だろ。そんな莫迦な顔するくらいなら先に鍵を渡せ」
言われて、自分は今どんな顔をしているんだと思った。古泉一樹らしからぬ顔であることは想像がつく。だが別に問題はそこではない。
「あな、た…どうしてそう、変なところで平静なんです…。さっきまで…っ」
わけがわからない、と頭がぐるぐる混乱していた。熱か驚愕か目眩か喧嘩か。原因が思い当たりすぎる。兎も角そういったダメージから回復ができていないらしい。おかしなことまで口走りそうになった口を慌てて押さえつけた。
さっきまで。
そう、さっきまで彼と言い争いをしていた。
誰とでも波風を立てぬように静かに過ごす自分としてはあり得ないことだ。
それも、彼が。
思い出すほどに頭の芯が熱にうかされて膨張しておかしくなるみたいだと思う。
彼が、あんな。


『行くな』


見たこともないような、心底真剣な顔で。
言う言葉が、それが自分のためだけにある言葉で。

彼が、自分の身を案じてくれているのではと、そう勘違いしてしまうほどには、その言葉も真摯な眸も、自分にとっては甘い、甘すぎる誘惑でしかなかった。
あの時の自分は明らかに平静とは違ったし、違う意味で彼も平静ではなかったと思う、のに。

その後でどういう仕打ちだ、この人は。

言葉をつげずに黙っていると代わりに彼が口を開いた。
「まぁ…喧嘩したしな。あ、言っておくがあれを否定する気はないし、俺は未だに怒りMAXだぞ。口もきいてやりたくない」
なら普通は顔も見たくないとか言ってとっくに帰っているでしょうに。そしてどうして今あなたは僕に話しかけて居るんですか。
疑問はいっぱいだった。問いたげな目線だけ返すと何も言っていないのに煩いと睨まれた。
「お前がそんなとこに座り込んで動かないから気になっただけだ、断じて許したわけじゃない。だから」
一度言葉を切った彼が、目の前丁度一歩分の歩幅をあけたあたりまで近づく。なんです、と見上げる僕に、彼は手を差し出した。
「今日は手を貸してやる、が」
「………」
「次部室で会ったら思い切り無視してやる」
手を差し出したまま、目線は非常に不本意と言いたげに逸らされて。言うに事欠いて無視とは。
「……小学生ですか、あなた」
呆れたように言うと、問答無用で腕を取られ立ち上がらされた。
知るか、と顔を逸らした彼が小さく吐き捨てる。

握られた手は、ひやりと冷たく気持ちが良かった。




彼には妹がいる。小学生の女の子だ。家で彼女の面倒を見ることもよくあると言っていたこともあったし、実際よく世話をしているのだろう。それと同じだ。部屋に連れられて上着を脱がされた後着替えろと言われ雨に濡れた服も着替えさせられた。着替えは自分でしたのだが、自分で出来ますと言わなければ彼はそれを手伝いかねなかった。多分きっと、妹にするときと同じ感覚だったのだと思う。僕の言葉にああそうかと彼は気がついたようでキッチンに行き、戻ってきたときには湯気の立つ飲み物まで手にしていて目を瞠った。手際がいい。
中身は買ってきてあったらしいスポーツドリンクのお湯割りに何かが浮いているものだった。まずくても飲めと強要されてとりあえず口にする。白湯よりは味のある、だけど薄い液体が胃の中に沈んでため息が零れた。暖かい。
本当は生姜と蜂蜜とかの方がよかったんだけど、ないだろう? と確認するように彼が問うてくる。当然だがうちにそんなものはない。あったとしてもせいぜいチューブとか、弁当についてきた生姜じゃないだろうか。そう思って、あ、と気が付いた。カップの中の何か、そうだ、これは弁当によくあるあの生姜だ。
「生の生姜の方が効果はあるんだろうが、入れないよりはいいかもと思ってな」
「…………」
「生姜って身体あったまるんだぞ? 知らないのか?」
いつもはつまらん雑学を披露するくせに、と彼が眉を顰める。
料理の分野は苦手でして、と苦笑してそれに返した。
本当は知っている。知識としてなら日常に全く必要のない雑学すらこの頭に詰めているのだから、生姜に発散作用があるという有名な効能ぐらいは知っている。それでも、咄嗟に答えられなかった。
勘違いかもしれない。それでも、彼が雨に濡れて冷えたこの身を温めようと心を砕いてくれたという事実に、息が詰まりそうだと思った。
─────優しい。
彼は元来誰にでも平等に優しく世話好きな性格であるが故に、今の彼の行動は自分が熱を出しているという事実がそこにあるからに他ならない。
それ以外を期待してはならない。それも充分解っている。
なのにどうしてだろう。
気を抜くと、その優しさにつけ込んで、何か途方もない我が侭を言ってしまいそうな気になる。
それより、と貰ったカップを両手で包み暖かい湯気を見つめながら話題を逸らそうと口を開いた。
「こんな時間まで。ご家族が心配されるでしょう?」
時間は確認していない。だがもういい加減日付も変わる頃じゃないだろうか。夜遊びなどほとほとしそうにない彼がこんな時間まで家に帰らないなど、あり得ない話だ。彼はああと呟いて、連絡はしていると言った。
「頭の悪いやつの看病だと言ったら快く許可がおりたんでな」
口端をつり上げて笑う彼は言外にその言葉が厭味なのだと示していた。どういう意味かは聞く気になれない。聞いたら最後、絶対に自分の莫迦な所行を事細かに指摘されかねないなと思った。
「ではもうお帰りを。大丈夫ですから」
帰る途中に解熱の注射を打ってきたことと、看病の必要がないことを告げる。疑るような視線を向けてくるだろうかと思っていたが、予想外にも彼はすんなり納得したらしく側に置いてあった鞄を片手に立ち上がった。
「じゃあ帰る」
背を向ける彼は、いつも帰り道の途中で別れるときと同じだ。
そこに不自然さなどなく、いつもと同じ、その動作。
その背を見て、ああ帰ってしまうのかとなぜか残念に思う自分がいて────驚いた。
「…暗いから、気をつけて下さい」
自分で言っておきながら、それはどういう意味だろうと思った。外は街頭がないような真っ暗闇でもないし、彼は夜道に気をつけなければいけないような可憐な女子高生でもない。それでも、何か言葉をかけたくて。
自分と同じように思ったのか、彼も「朝比奈さんじゃあるまいし、暗いからって転んだりはせん」と笑った。
玄関に向かう彼を見送るためにその後ろに続くと、ああと思い出したように彼が振り返る。
「この辺のゴミ、勝手に出したからな。お前必要ないならさっさと捨てろよ」
言われて見ると、確かに台所に置きっぱなしだったゴミが消えている。わざわざ捨ててきて下さったんですか、と言うと彼はそう言われるのが不本意だったのかフイと顔を逸らした。捨てたものの中に必要なものがあったんならあとで捜してこい、俺は手伝わんと顔を背けたまま彼は言う。
確かに必要なものがあったなら大変な話ではあるが、見る限りその可能性は低そうだった。
自分に必要なものなど、この殺風景な部屋には無いに等しい。さすがに機関への報告書が入ったフラッシュメモリなんかが捨てられていたら捜しに行く羽目になっただろうが、彼はゴミとしてまとめていたものだけを捨ててきてくれたようだった。心配する必要はなさそうだ。
大丈夫ですよ、と答えると靴を履こうとしていた彼が振り返る。
その顔が顰め面になっていて、おや?と首を傾げた。
彼がこういう顔をするのは珍しいことではない。例えば、この世界の神たる存在である涼宮さんが無理難題を彼に押しつけたときだとか、未来人の朝比奈さんに無体を強いたときだとか、そういう時によく見る。
納得がいかない事態に陥って困っているとか、そういったときに見せる顔だ。今自分は彼を困らせるようなことをしたのだろうか、と自分の行動を反芻するが答えが出るより先に彼が言った。

「さっきも思ったけど…おまえ、さ。大丈夫じゃないときは、笑わなくてもいいんじゃないか?」

振り返った彼が、8センチ分低い位置から顰めた目線を合わせてそう言う。
視線を合わせた黒い瞳の中に、間が抜けた自分の顔が映り込んでいて。
え、と呟くと声が掠れた。

「別にお前がそうしようとしてるのはわかってるけど…ハルヒの前じゃあるまいし…」
小さく、彼は独り言のように呟いて、また背を向けてしまう。
それを見つめる一方で、今なんと言われたのだろうと、よく回らない頭で考えた。

─────解る人がいればいいですね。
考えた末に思い出したのは、先刻新川さんが言った言葉と、目の端に映っていたウィンカーのオレンジ色。
────大丈夫じゃないときは、笑わなくてもいいんじゃないか?
大丈夫じゃない? 誰が?
そんなつもりなどなかった。確かに熱はまだ完全に下がりきってはいないし身体は多少だるい。それでも一歩も動けないような時とは違う。大丈夫だ。だからそう言った。
じゃあなぜ大丈夫じゃないだなんて言われるんだ?
機関の仲間ならわかる、自分が謎の転校生を演じる前からの付き合いだ。時折昔の、素の自分に戻っていたとしても可笑しくない。
だが彼の場合は違う、彼にとっての自分は『機関』に所属する限定超能力者で、涼宮ハルヒの監視人の一人。機関の誰かよりもよほど気をつけて素の自分を押し殺している自信はある。
なら、何故。この完璧な笑顔を前に、彼はそんなことを言うのだろう。
それとも、自分がそうと気づかず笑顔でなくなってしまっていたのだろうか。

「…大丈夫か?」
いつの間にか、再び振り返った彼が目線を合わせている。
どういうつもりで彼がその言葉を紡いだのかはわからない。けれど、自分にとってその言葉は───何か、最後通告のようなものに、聞こえた。
たった七文字の言葉に深い意味などあるはずがない。だというのに。

「………泊まって、いきませんか」

気がついたら、そう口にしていた。




実は既にそうするつもりだったのだと彼は言った。
曰く、お前が帰ってくるのが遅いからもう泊まると家に連絡を入れたということだった。確かにこんな時間に家に帰して彼の家族や特に彼になついている妹さんの眠りを妨げてしまうのは忍びない。
ただそれでも、必要がないなら帰るつもりだったのだと、彼は言った。

「必要?」
「あるだろ、病人の時に一人だと寂しいとか、そういうの」

妹の看病の時なんか一晩中手繋がれて無理な体勢で寝て翌朝散々だったことがある、と彼は笑った。
一人暮らしなんだから、病人の時に一人になるのは当たり前だ。だが誰かが帰った後というのは、最初から一人という状況よりよほど寂しさを感じるものではないのか、と。だから、もしお前が言うなら泊まっていこうと思っていたんだ、と。彼は言った。
どこまでも優しいお兄さんだと、思う。

カーテンの隙間から差す日差しが大分明るい。その光に、昨夜降っていた雨は既に上がったらしいことを知った。
ベッドの上に起きあがって伸びをして、もう熱は下がったなと思った。少し倦怠感はあるが熱によるものではないとわかる。
昨夜の注射とよく寝れたおかげだろうと思う。しかしその熱の下がり方には現金だなと思わずにはいられなかった。
ベッドの下の床の上に目を向けると布団が丸まったものがそこにある。ゆるやかに上下するそれと、微かな寝息。彼がそこにくるまって寝ているのだ。
昨晩泊まっていきませんかと言った割に、寝る場所がなくベッドを明け渡そうとした自分に彼は心底嫌そうな顔をした。病人から寝床を奪う奴がどこにいる、と額を軽く弾かれて、替えにと置いてあった布団を引っ張り出された。それにくるまって、適当に床の上の雑多なものを避けて彼は寝てしまったのである。
彼の妹のように熱があるから手を繋いで下さいだなんてことは言わなかったが、床の上で布団一枚にくるまって無理な体勢で寝かせてしまったことに変わりはない。起きたら筋肉が悲鳴を上げてしまうのではと苦笑が漏れた。
「………ん」
ごそごそ、とその布団の塊が動く。寝返りを打った彼が、焦点の合わない瞳でぼうっとこちらを見た。

「おはようございます」
「……ん、…はよう…」

声がまだ眠そうだ。
今何時だと問う声に時間を告げて、寝てていいですよ、と声をかけた。
今日は休みだ。無理に早く起こす必要もない。自分の言葉に彼はまた睡魔に囚われるように目を閉じた。自分は昨日からずっと寝ていたせいか随分目が冴えてしまっていてこれ以上寝ようという気にはなれない。

そういえば、朝食になるようなものはあっただろうか、とふと気づく。
普段から冷蔵庫の中にはほとんどものを入れていないし、備蓄食糧は今はインスタントものだけだ。加えて彼が昨日買ってきたお粥。とても男子高校生二人の朝食に足りるようなものではない。
何か、なんでもいい、食べられるものを買ってこようと起きあがった。ああでもその前にシャワーを浴びなければ外にも出られない。そう思って浴室に向かって、ああおかしな朝だなと思った。

誰か、自分以外の誰かのために朝食を用意するだなんて、この一人暮らしを始めてから─────いや、機関に属するようになってから初めてだったと思う。
ああでもそれを言うなら。

おはようとか。
そう、おかえりなんかも。

もうずっと、一人で暮らしてからかけられたことのない言葉だったなと思った。
シャワーを軽く浴びてタオルで拭くだけで髪を渇かし、身支度を整える。それだけ動き回っても彼はまだ眠りの中だった。キョンって授業中ほとんど居眠りしてるのよ、放っておけば一日の半分は寝て過ごすわよきっと! と涼宮さんが言っていたのを思い出す。その言葉に納得してしまいそうだと思った。

財布と鍵と、携帯だけを持って玄関に向かう。
玄関から真っ直ぐ伸びる廊下の先、わざと開け放したままの部屋のドアから、彼が寝ているのが見える。

「行ってきます」

聞こえないとわかっていながら、それでもその言葉を噛み締めるように口にした。
帰ってきた頃に、彼が目を醒ましていたら勝手に外出していたことを怒るだろうか。
自分はその彼に言い訳を述べたり謝罪を述べたりするんだろうか。
それでも、最後に。昨夜と同じように。
もう一度おかえりと言ってくれたら。

嬉しい。

そんな風に思いながら、玄関の戸をゆっくり静かに閉めた。

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