Raison d'etre ( interlude )
『………なんだ?』
受話口から聞こえた声に思わず息を呑んだ。
夜も完全に明け切っていないまだ朝方。彼が電話に出るとは思っていなかった。というのは当然なのだけれど、驚いたのはそっちではない。自分が彼に電話をかけたという事実に驚いたのだ。
真夜中にいつもの呼び出しがあり外に出ていた。最近神様はご機嫌斜めらしく小規模な閉鎖空間がよく発生する。しかも決まって夜中に。本人に意識はないのかもしれない。
ともかく、毎夜毎夜こう呼び出しが続いて、その内まともに眠れない状況へと追いやられて、それだけならまだよかったものの、最近は食事もろくに採っていなかった。料理は面倒だから最初からする気などなかったし、買い物に行くのも億劫になることが多々あった故だ。まともに食事を採っているのは昼食時、『北高に通う古泉一樹』をしている時だけだったと思う。
だから、なのか。
その日、アルバイトを終えて帰る途中で不覚にも目眩に襲われた。軽い貧血だろうと思う。こういうときに限ってタクシーを使わず帰ろうとしてしまったことを後悔した。
朝方故にほとんど人通りのない道に座り込んで、目を閉じて。すぐ脇の道では何度か車が通りすぎたけれどその音も耳鳴りが酷くてよく聞こえなかった。どれだけそうしていたか覚えていない。いい加減空も白んできていたし、誰かに見られて騒がれるのもまずいと思って上着に入れたままだった携帯電話を取り出した。機関の誰かに連絡をつけるのでも、タクシーを呼ぶのでもなんでもいいと思った─────はずなのに。
『お前今何時だと思ってるんだ』
受話口から聞こえる声は、聞き慣れた声。
それまで微睡むようだった頭が急に覚醒した。
彼だ。
不機嫌さを顕わにしている声に思わず何をしているんだと自分を叱咤して彼に謝罪の言葉を述べる。
彼に電話をかけてしまった、その事実を呪いながら。
思えば、その時からもう熱は出ていたんじゃないかと思う。
常ならば──────『北高に通う古泉一樹』としては決してしないようなミスをしてしまったのだから。
慌てて電話をかけた理由をなんとか取り繕って、電話を切って。
少し、頭を抱えた。
彼の声を聞いている内に頭は冴えた。目眩はもう引いている。
立ち上がって裾を軽く払って、古泉一樹は小さく息を吐いた。
今日一日の予定が空いてしまった、と。
それから部屋に戻ってベッドに横になった途端眠った。よほど疲れていたのかもしれない。それでもいつもの起床時間に目を醒ますと──アラームをセットしたままだった──そこで頭に霞みがかかったような違和感と身体を支配する倦怠感、あとついでに渇いて今にもはりつきそうな喉に気がついた。息をしようとして思わずむせる。おまけにさっきから背筋のあたりがどうにもぞわぞわと何かが這い回るような寒気を感じてしまっている。自分の身体の異変に疑問を浮かべる一方で、ああこれは熱が出ているときの症状だ、と客観的に理解した。体温計なんてものは部屋に置いていない。だから実際のところ体温が平常より何度上がっているかは定かではなかったけれど、明らかだった。
瓢箪から駒、嘘から出た誠。
自分はどうにか優等生を裏切る真似はしなくてすむらしい。
苦笑して、枕元の携帯を手に取る。発信履歴を出して、一番上の彼にかけようかと思い、だけど一度その指が迷った。
『仮病だったはずが、本当に熱が出てしまいました』
わざわざ、言うことだろうか。
彼には嘘をついたことになる。だけど、見舞いに来られたくないのは事実だ。なんてったってここ数日は忙しく、この部屋は古泉一樹らしい部屋とはほど遠い有様になってしまっていた。それ以外にも、PCの中には機関に関わるデータ類まで入っている。古泉一樹らしからぬ振る舞いをするわけにはいかない。彼女の前では。
「やめて、おきましょう」
面倒だ。今の状態でだって彼なら彼女を止めてくれるだろう。
発信履歴から画面を切り替えて今度はアドレス帳を呼び出した。学校に連絡を入れなければならない。3コールの後で繋がった電話は少し待たされた後担任に繋がった。熱があって休むという旨を伝えると、いつも品行方正で通しているだけあって、一人暮らしだというのに仮病だとも疑われず担任は「安静に」と言って電話を切った。
電話を切ると喉がいい加減カラカラで、流し台から適当にそのまま水を貪った。
その後はもう、だるい身体を起こす気にもならず、ほとんどぼうっと寝て過ごした。
そして。夢を、見た。
いつもの学校。だけどそこは授業を受ける教室ではなく、見慣れた部室棟のある一室で。放課後の喧噪が窓の外から微かに聞こえる中、ボードゲームに興じている自分。向かい合って相手をするのは彼だ。
いつもの放課後の風景。
ああそうだ、まだあの勝負がついていなかった。
そう思って目を醒ますたびに。
───────酷い後悔を抱いた。
夢には、他の誰も出てこなかった。
* * *
元来彼は世話好きの性質なのだと思う。
話に聞く限り、妹の面倒をよく見るいいお兄さんであり、涼宮さんに関してもどこかそういった、慈しむ態度を感じる。放っておけないのかもしれない。
だから、彼は今ここにいるんだろう。目を醒ましたその瞬間に彼が部屋にいて、ひどく動揺した自分自身に言い聞かせるようにそう思った。
「貸しをもう一つつけたいくらいだ」と彼がぼやくのを苦笑して見た。彼女に強引に頼まれたからと言ってここまでするような必要はない。適当に誤魔化せばいいものを。なのに、そうしない。普段は怠惰な態度を取っておきながら、その実冷めているわけではなく、むしろ情愛あついのではないだろうか。それを時々見誤りそうになって─────こちらが困ることもあるというのに。
「ここにはコンロはあっても鍋がありません」
何か作ろうとした彼にそう告げてだから無理でしょうと笑うと、彼は一度眉根を寄せて複雑な顔をした。言葉を交わす内にこちらの言葉をゆっくり咀嚼して意味を理解したように、その表情が変わっていく。
浮かぶのは、明らかに不機嫌なそれだ。
怒っているような、気がした。
なんでそこで怒るんですか、とは─────聞けなかった。それすら、勘違いではないのかと思えて。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
押しつけられた冷却剤を頭につけたままそう謝ると、塞がれた視界の向こうで彼は小さく舌打ちをしたような気がした。「貸し二つ」と言った声のすぐあとで部屋の戸が閉まる音が聞こえる。視界をあけると、もうそこに彼の姿は無かった。
ずるりと、力を失ったようにベッドに倒れ込んで、誰もいなくなった部屋を見回す。
「………他に、なんて言えばいいんですか」
小さく呟く声が、静かな部屋に痛いほど響いた。
部屋に鍋を置いていないのはここに定住する気がないからだ。いつでも『北高に通う古泉一樹』をやめられるように。問題がないように。部屋には必要最低限のものしか置いていない。いや、鍋が置いてあろうが置いてなかろうが、やめる時がくればやめれるはずだ。それでも鍋を────鍋だけじゃない、ろくな食器もインテリアも置いてないのは、気持ちの問題だった。愛着のある部屋にする気はないからだ。
それを、彼はどこかで悟ったのだろうか。あの、不機嫌な顔。いや、気づいたとして、なぜ怒ったのか。
自分が機関という組織に属し、涼宮ハルヒという人物を監視するために今ここにいることを彼は知っている。それがなければここに存在しないということも。彼が不機嫌になる必要があるのか? あるならその理由はなんだ?
そんなの──────彼が優しいからに決まっている。それ以外、あり得ない。
それ以外の何かを、期待しそうになる自分に吐き気がする。
熱に浮かされた頭が莫迦なことを考える前に頭を冷やすべきだと顔を洗った。
その時だったんだろう、彼が置きっ放しにしていった鞄の中で、携帯が鳴っていたことを自分は知らない。流れる水の音にかき消されて耳に届いていなかった。
そして、そのすぐあと、自分の携帯が鳴り始めた。