雨の音がする。

今日の予報は雨だったらしいが生憎と朝から天気予報どころかニュースもまともに見ていない状況なので頭にあるのは先日見た週間予報くらいだ。それでも記憶は薄い。何時かと思って手を伸ばした先、触れたアナログものの腕時計は11とい う数字を差していた。起き上がろうとして、あまりの身体のだるさと走る痛みにまたベッドに突っ伏する。
原因はわかっている。
久しぶりですね、と言って笑ったあの男の、その同じ声が。
責め立てるような台詞を吐いて、甘い嘘をついたのは数時間前で、散々身体を弄られた挙げ句、気を失って気がついたら部屋で寝ていた。全部夢だったのかと一瞬思って。だけど身体に残る倦怠感と痛みでそれは違うのだとわかった。
それから。

『今日はお休みにしておきました。閣下には僕から伝えてあります。休暇届けは後日提出してください』

素っ気ないほど普段通りのあの男のメール。
――――あいつがわからない。
そりゃ昨日のあれだって正直頭の中じゃ処理オーバーで事態の把握なんざこれっぽっちもできちゃいないが。触れた肌だとか絡めた熱の熱さだとか堪え切れずに気を失うほど感じてしまったことだとかそんなものだけがぐるぐるぐるぐる、回って。
――――わからない。
何がしたいんだ。俺のこと、なんだと思ってるんだ、なんて。そんな理由を必要としているのは多分きっと俺だけだ。

頭の奥が、響くようにズキズキ痛む。寝てしまえば楽になれるだろうに神経は見事に全部冴え渡っていて、眠気はさっぱりだ。それどころか閉じた瞼の向こうで昂ぶった神経が昨夜の残像を映し出す。
宥めるような甘い声と、熱に浮かされた琥珀の眸と。おいおいなんだか美化されちゃいないか? そう思うのに――――身体は正直だ。
「…………」
夢の残滓を求めて動く指先が浅ましいだなんて百も承知だ――――だけど。二度と会わないと、もう封じ込めたはずの思いに、叶わないと諦めていたのに、あんな風に触れられて。
正気でなんか、いられない。
肌に残る温もりはあまりにも鮮明で。そうじゃないとわかっていながら、思い出す声をどうしても甘く感じてしまう。ざわつく神経は薄皮一枚隔てて触れられているような気さえした。
「…………、っん」
思い出しながら動く指先の感触に、喉から自然と吐息が零れ落ちて、それを必死で殺す。
その吐息を飲み込むようにキスをされた。それを思い出して食い縛った口の端から、つ、と唾液が滑り落ちる。
古泉、と名前を呼ぼうとして、だけどそれが出来ずに唇を強く噛んだ。
昨日のあの時も、名前なんか呼べなかった。快楽に押し流されて名前なんか呼んでしまったら、どれだけ甘い声を出してしまうか。それが怖くて。必死に声を殺した。


そうして、降り続ける雨の音を聞きながら、強く強く目を閉じた。



夢を見た。
どうして、呼んでくれないんですか、と。
消え入りそうな細い声で囁いて寂しそうに笑う古泉一樹を見た。

――――――これは、ただの幻影だ。



















熱があるような気がした。それは気づくか気づかないかという程度の微熱だったけれど。


















次に気がついたときには雨の音は消えていた。止んだのかもしれない。代わりに人の気配と閉じた瞼の向こうできし、と床の鳴る音で目が醒めた。枕元まで近づいた気配が、一度息を吐く。
「………起こしてしまいましたね、すみません」
静けさの中そんな、嫌味なくらい爽やかな声が丁度頭の上のあたりから降ってくる。なんで目をあけてもいないのに起きたって気づくんだか。渋々といった風に目を開けると予想に違わず整った爽やか顔の古泉一樹がそこにいた。古泉が部屋に来 るということは既に勤務時間外だろうか。何時だろう、とまた枕もとの時計を探すと16時です、と古泉が答えた。まだ一応勤務時間内だ。
「寝すぎた」
響くような頭の痛みは消えていたが逆に睡眠をとり過ぎて身体がだるい。一日無駄にしたのかと思うととてつもなく勿体無い気がした。疲れていらっしゃったのですから仕方ありませんよ、という古泉の言葉に、誰がそうさせたんだか、と非難めいた視線を向ける。お前のせいだよお前の。
「すみません、仕事に支障をきたすほどのことを酷使させてしまったという自覚はあります。…あの、明日は出れそうですか?」
すみませんとか言いながら間髪なく出た容赦の無い言葉にはつっこむのも一瞬遅れたね。鬼かこの男は。
「お休みなさるかどうか確かめておきたくて…その、どうなさいます? 立てますか?」
立てますかって、古泉。お前あれがどれだけ大変なことだったかきちんとわかってるのかよ。ああ本当むかつくな。
「…お前がむかつくから意地でも出てやる」
ぴしゃりと言い捨てると古泉が複雑そうな顔をして笑った。辛かったら言ってくださいね、って言えるかよ。てゆうかそんなこと言うくらいなら最初からあんなことするな、と瞬間説教してやりたい衝動に駆られ、だがそれをすんでのところで抑え込んだ。

古泉は何も言わない。
昨日のあれに至った経緯だとか理由だとか弁明の一つもしてみせればいいものを。
欲求不満なので相手をして下さいって、それで自分の感情に嘘がつけずになし崩しに受け入れた俺も俺だが、古泉も古泉だ。
そんな、それだけの理由なら、どうしてそんな風に気を遣うんだ。あの最中だって熱に浮かされてほとんど覚えちゃいないが責め立てる言葉の割りに、傷つけるような真似はされなかった。欲望の捌け口にするくらいなら、人間もっと利己的になるもんだってのに。いっそ修復不可能なくらいに傷つけてくれたなら、そうだと簡単に割り切れただろうに。

そうも、できない、くせに。

「大丈夫、ですか…?」

思わぬところでぼうっと考え込んでしまっていたらしい。気がつくと覗き込むように顔を寄せた古泉が目の前に居て一瞬焦った。顔が近いと反射的に口にして、なんでもない、と目を伏せる。考えたくも無いのにまたぐるぐると考えてしまっ ていた。いくら考えたって答えなんか出てこないってのに。
古泉は俺が明日どうするのかだけ確かめに来たのだと言ったが一向に席を離れようとしない。お互いに何を言うでもなくただ沈黙し座っていると、古泉が手を動かした。
伸びた指先が、どうするんだろうと凝視しているその前で、俺の首筋に触れる。何がしたいのかさっぱりわからない。なんだよと古泉を睨むと、古泉は指先を離そうとはせずににこりと笑って、非難の声もお構いなしにまた顔を寄せた。
「痕、残ってますね」
恐らく昨日の、と言いたいのだろう。長い指先が、皮膚の薄皮にだけ触れるような力でそっとそこをなぞる。熱を残すようにその痕にまた唇が触れて。瞬間背筋に走ったものに思わず首を竦めた。ぞくりとしたそれは悪寒でもなく、明らかな欲望で。それがわかった自分自身に嫌気が差した。
明日は仕事に出るんだから、といった類のことを辛うじて口にして古泉の肩を押し返す。顔を見たくなくて目は逸らした。古泉もこれ以上は何かするつもりもなかったようで、鬱陶しい上背のある上半身は抵抗無く離れる。
しませんよ、と囁いて。
「明日もあなたを休ませてしまっては、あなたの部下や閣下に申し訳ありませんから」
そう言う笑顔に誠意を感じられないのはなんでだろうね。俺が止めなければ一体どうしたんだか―――――って、俺が何かを期待していたみたいな言い方だが、別に何かを期待していたわけではない。断じて。
仕事に戻りますね、と古泉が席を立つ。その背を見送るように見つめていると、その視線を感じたのか古泉が振り返った。
「…その痕が、消えた頃に」
言って、自分の首を指差す。
そのときにまた、来てくださいと。
笑いもせずに古泉は言った。

何を目的に、なんて明白だ。
返事はできずに、俺は体調不良を言い訳に掛け布を頭から被ってベッドに潜り込んだ。

首筋が熱い。
古泉が触れたところから、熱が滑り込んでくるみたいに。

古泉が離れた今も、その熱は内側で燻って。
いつまでも消えようとしない。



頭がおかしくなりそうだ。




被った掛け布の向こうで部屋を出る古泉の声と、ドアの閉まる音が、少し遠く、聞こえた。

...080918