───────何がきっかけだったのかなんて、覚えていない。
古泉とは士官学校からの付き合いで、周り曰く随分仲のいい友人ではあったらしい。俺はそんなつもりはなかったけどな。あいつはいつもにこにこ無駄に笑いやがるし、それを疎ましく思って冷たくあしらうことなんかざらだった。それなのに仲良く見られていたなんてむしろ心外ってもんだ。
まあそれでも。
今みたいな関係なんかじゃなく、至って普通の友人だったと俺は思っている。そこにどんな思いや思惑が交錯していようとも、少なくとも俺は、友人に見えるように努めていた。
それがどういうわけか今じゃこうだ。
「…、っあ…!」
ガク、と揺すぶられる感覚がして目の奥に白い火花が散る。上がりかける悲鳴のような嬌声を飲み込んで、固く目を閉じるとその向こうでふっと吐息を零して笑う声が聞こえた。
「…そんなに、力、入れないで下さい」
声は随分切羽詰まって上擦っている。その無駄に色気を含んだ声で今度は「先にいったらどうしてくれるんですか」と耳元で囁いてくるもんだから、頭がおかしくなりそうだ。
煩い知るか、お前の所為だ、全部! お前の所為でお前がどうにかなろうが俺の所為じゃない自業自得だ。
「僕はあなたがいくところが見たいんですよ」
極上に甘い吐息が耳朶を撫でてそこから脳を溶かしていくみたいだ。
唇を噛み締めてそれに耐えようとすると、声の主は俺の足を支えていた手を片方離して、神経が集中してるとでも言うような熱の塊にその長い指先を絡めてきた。それだけで背が引きつるような快感が突き抜ける。
死にそうだ。
「あ、ぁあ…っ!」
抑えていたはずの声が高く上がってしまう。身体を捩ってどうにか逃れようとしたが無駄だった。
目の前で綺麗な顔が抑えきれず快楽に歪むのを見つめながら、急速に追い立てられて、五感が全部吹っ飛ぶような衝撃が身体中を駆けめぐった。
──────意識があったのはそこまでだ。
まるで死に際に見る夢のようだと思う。
だからこの思いはきっと、死んでしまうのだろう。
届かないと、自分は知っているから。だからきっと自分が殺してしまうのだろう。
士官学校を卒業して数年。学校卒業直後に入隊した学友たちとは違い、俺は数年兵役を免れた。妹がまだ成人していなかったからだ。母子家庭であるが故の優遇で、大抵は学校卒業直後は士官候補生はそのまま士官となる。士官学校時代友人だった学友たちとは一度別れ、再び再会することはまぁまずないだろうと思っていた。軍ってのはそれだけでかい組織だ。ただそれでも、学友と同じように士官となることを俺は拒んだ。優遇措置に甘えて、兵役を免れて、そうまでして。
────俺は、古泉から遠離りたかった。
俺は。
古泉一樹に決して本人には気づかれてはいけない思いを抱いている。
こい、と。
たったの二文字で終わるくせに、人の感情をかき乱してどこまでも追い詰める、その感情を。
それに気づかれたくなくて、俺は逃げた。
多分きっとこれ以上傍にいるようなことがあったら、俺は自分の莫迦な気持ちを吐露しかねない。そう思った。
なのに。
モラトリアムの終わりを迎え、軍人となると俺は古泉と同じ艦に配属されてしまっていた。理由はまあ簡単だ。軍の姫君たる涼宮閣下が学校時代の友人と同じ艦でなければ嫌だと仰ったからである。鶴の一声だった。
そんな小娘の傍若無人な願いを普通軍のお偉方は聞き届けたりなんかしないだろう。だが、その我が侭を叶えて貰えるだけの力を持つのが涼宮ハルヒという人間だった。あいつのそれだけの力と、傍若無人っぷりを失念していた自分を罵りたい。
そんなこんなで士官候補生時代共に過ごした俺、ハルヒ、長門有希、上級生の朝比奈みくる、そして古泉一樹は本人たちの意志などお構いなしに同じ艦に配属となった。
最初はいかに古泉を避けるかに頭を悩ませていた俺も、すぐにそれが無駄だと言うことに気がついた。同じ艦に所属していて部隊こそ違えど仕事柄顔を合わせないわけにはいかないし、何より涼宮閣下の一声があれば俺たちはすぐに集まらなければならない身の上だ────まことに理不尽なことに候補生上がりのしかもブランクたっぷりな俺は入隊してすぐにも関わらず参謀を仕切る立場にされてしまっていた。今後の人生、古泉を避けて通ろうだなんて無理な話だったわけだ。
結局俺は神経をすり減らすようにしながらも、士官学校時代の友人を懐かしむように適度な距離を保とうとした。近づきすぎず不自然に避けるような真似はせず。俺はその内ストレスを溜めて胃に穴でも開けるんじゃないかと思ったね。そのくらいの努力はした。
だというのに。
それがいつの間にやら古泉の部屋に寝泊まりするような関係になり、泊まった時は確実と言って良いほど、貪るように身体を重ねるようになってしまっていた。それまでの俺の努力はなんだったのかって話だ。
しかも。
俺も古泉も、相思相愛だからそういう行為をしているわけじゃない。俺があいつに『こ』で始まって『い』で終わるあの感情を抱いていたって、あいつから一言でもそれに関する言葉は聞いたことがない。この行為自体、身体の隙間を埋めるためにしているようなものだ。一度だってそれ以外の何かだなんて思ったことはない。最初にあいつはそう言ったし、それに。
俺たちは身体は重ねてもキスはしない。
最中に深く貪るようなそれはしても、少年少女が交わすような初々しい…とまではいかなくても唇が触れるだけの、そういうキスはしない。当たり前だ、ああいうキスは好きだからするんだ。そうじゃないキスなら、いくらでも性欲を刺激する材料として使っている。
だから、夜はそういうことをしても、昼間は俺と古泉は昔からの友人で、上司と部下だった。一切このことを話題にはしない。古泉の部屋以外では。いっそ清々しいほどそれは徹底しているから、時々俺は昼と夜とで別世界にいるんじゃないかと思うこともある。
それでも、部屋に訪れれば必ずと言って良いほど抱き竦められ、頽れるようにベッドに転がった。
一体何がきっかけだったのか。そして今も。
何がきっかけでそっちのスイッチが入るのか。
俺は未だによくわからない。
カタカタと控え目に響く音。目蓋の向こうで小さな明かりが見えて、目をあけるとホログラムのモニタを前にした古泉がいた。まだ暗い部屋の中でモニタのその光だけが見える。まだ夜は明けていないようだ────現在この艦は宇宙を航行中だが、母艦には疑似重力と太陽光があり、地上と変わらぬ暮らしを送れるようになっている。モニタの薄青い光を顔に浴びている古泉を見て目に悪いなと思った。
「仕事か?」
寝起きで擦れる声で問うと、画面を見ていた古泉が気がついて振り返った。
「すみません、起こしましたか?」
慌てたように言う古泉に、おお珍しくなと返す。俺は睡眠欲求だけは人の三倍はあるんじゃないかというほどの睡眠好きな人間だ。一度寝たら朝まで起きないのが普通だってのにな。
寝ないのかと問うと、古泉は困ったように苦笑した。
「まだ報告書が残っていまして…。朝まで終わりそうにないんです」
モニタに映し出されているのは文字列やら写真やら、とにかくいくつもの窓が犇めき合うように並べられ、隙間が無いほどだった。この外面だけは何よりも完璧な男はどれだけ内面が自堕落な男だとしても、この部屋以外では品行方正で優秀な幕僚総長殿なのだ。こいつが朝までかかると言っているのだから、コレは相当の量なのだろう。きっと簡単には終わらない。
モニタに映された電子文字を何とはなしに見つめながら、ルームメイトだった時を思い出すなと思った。あいつの班は基本的にエリートを目指してる候補生で構成されていたから、俺なんかの平々凡々な班と違って課題は多い上報告書の類も半端なく、遅くまでそれを片付けていることがよくあった。
夜中に一人でこいつが課題を片づけている横で俺は平凡クラスを有り難く思いながら寝てたり、たまには古泉に食べ物を買ってきてやったりもした。まあそうでもしないとこいつは何かを口にするということすら忘れて、課題に没頭していたからだ。
あの頃みたいだ、と思った。
と、同時にルームメイトだったときではあり得ない格好で相手のベッドに寝ている状況に気が付いて、ああと。
胸を穿つような、何かを感じた。
「…帰る」
起き上がって呟くと、古泉が虚を突かれたみたいに目を瞠った。はい?と聞き返してくるから俺はもう一度、部屋に帰る、と口にする。声が擦れた。
そんなに仕事があるならなんで今日俺を呼んだんだ。あんな無為な時間を過ごすよりさっさと仕事を終わらせれば、もっと早く休めただろうに。なぜそうしない。そうは思っても結局それを聞くことは出来なくて唇を噛んだ。
そうですね、なんて簡単に言われてしまったらと思うと――――どうしても、聞けなかった。
脱ぎ散らかした服を手に取る。俺がいないほうが仕事が捗るのは事実だ。床に放っておいた服は袖を通すとベッドの中と違って少しばかり冷たく感じた。
上着を取ろうとしたところでその手首を掴まれて驚く。
顔を上げると無駄に整った顔が何時の間にやらすぐそばにあり、何か言いたげな視線を寄越していた。なんだよ、言いたいことがあるなら言えよ。古泉。
古泉はふっとその琥珀の眸を歪めて俯く。長い前髪がその眸に影を落とす。
「………いて…ください…」
吐息をつくように。散々逡巡した末に出てきたのはそんな、言葉で。
瞬間、心臓がドクと脈打った。
わかっている。違う。そうじゃない。
「…寝ないんだろ?」
俺のこの部屋での役目はここでお前と寝ることだろうと厭味だとわかっていながら口にした。色素の薄い髪が揺れる。長い睫毛に縁取られた眸がゆっくりとこちらを見上げて。その中に自分の姿が映るのだと思うと、心が騒ぎ出しそうだった。
それを堪える。
期待なんかさせるな。外れているかすらまだわからないのに、その期待は外れなのだと自分はよく知っている。
だけど。
「あなたが、待っていてくださるなら。…終わらせて、寝ますから」
古泉は眸を合わせて、そう言った。いつもより少し低い、懇願にも似た声。
卑怯な言い方をする。
俺の気持ちなんか知りもしないくせに、どうしてそんな言い方をするんだろうな。
────必要とされているんじゃないかと。
抱かなくてもいい期待を、抱いてしまう。
俺の手首を掴んだままの古泉の指は少し冷たい。それに触れて、やれやれとため息を吐いた。
「……待っててやるよ」
どこまでも面倒そうに、期待なんか抱いていないと。
少しの浅ましさすら気付かれないように。顔を背けて。
「ありがとうこざいます」
古泉が笑う。
その顔を見れない、そう思って。起きてられる限りな、と付け足してベッドに潜り込んだ。
掛け布にくるまると冷たかった服もすぐに暖まってくる。カタカタと響くタイピングの音を聞きながら、ああでも、古泉に縛められるように触れられているときの方がよほど暖かいと。
泣きそうになりながら思った。
...080713