「…さみしく、ないのか?」

その問いを、笑顔でどういう意味ですか、なんて問い返せたら。
―――――――よかったのに。

























「楽しそうね」
「…え?」
唐突に向けられた言葉に、最初その意味を図りかねた。
店内に響く控えめなクラシックが耳に心地よく、その音楽に聞き入ってしまっていた。申し訳ないことをしたとは思ったが、いつも同じ言葉を繰り返す相手がその時ばかりは不意打ちのようにいつもとは違う言葉を口にしたから、驚いたのだ。
「…楽しそう?」
「ええ」
確認するように問うと、向かいの席に座す彼女は優雅な手つきで湯気の立つティーカップを口に運び、それを一口飲んで笑った。
「最近なんだか楽しそう」
昔に比べるとね、と。
今まで何回と知れず繰り返されたこの四日間には無かった台詞だった。
彼女は数年前から生活面で世話になっている人で、常ならば親代わりの彼女と学校生活に関する定期報告から雑談をしてこの場はお開きとなる。だが今日は違った。話はいつものそれと変わらない。だけど唐突に付け加えられたその、言葉。
過去の自分を知る彼女がそう言うのだから―――尤もそれは作られた過去に他ならないのだが―――今の自分は確かに、彼女が知る古泉一樹という人物とは少しばかり違うのかもしれない。
それはつまり、作られた古泉一樹という人物像を超えた振る舞いということだ。

――――――これも、彼の影響か。

彼、と思い浮かべたのは先日この閉鎖世界に迷い込んだ一人のイレギュラー因子である人のことだ。彼は其処に在るだけで周りのものに少なからず影響を与えている。故意にしろそうでないにしろ。そして、そうやって出来た小さな歪みをこの世界が許容するのか修正を施すのかは、まだわからない。
ただ。
楽しそう、と言うその言葉に。彼女は他意など無いのだろうけれど。
神の不況を買った気分だと、己を笑った。
――――――この状況を楽しんでいるんでしょうかね、僕は。
問われれば否とは答えられない。
彼の齎す小さな歪みは、管理人である自分の立場から言えば危惧すべきものだ。いつ何時、この世界に悪影響を与えるかわからない。
だけど。
僕はむしろ――――。

「古泉」

呼ぶ声に顔を上げると、向かいの彼女が席を立つところだった。
「仕事があるの。もう戻るわ」
いつも通りの決まり文句を口にして、彼女はテーブルに置かれた伝票をするりと無駄の無い動作で取り上げる。生活面で世話になっているとはいえ奢られるのは申し訳ないと思ったのだが、伝票を取ろうとした僕の手をひらりとかわして彼女は笑った。
「出世払いよ」
その言葉にじゃあ今までのも全て出世払いだったんでしょうかとはさすがに聞けなかった。金額が莫迦にならない。代わりに感謝の意味を込めて笑顔を作った。
「ご馳走様です、森さん」
そう言って。




「お前、彼女いたのか?」

彼がそんなことを口にしたのは次の日の放課後。長門有希はいつもの低位置で静かに読書に励み、朝比奈みくるは強要されたメイド衣装をまだうまく着こなせないのかあれこれと神である彼女に弄られているところだった。
彼が無意識になのか、オセロの駒をカツカツと机に押し付けて音を立てている。三手目にして長考する彼が珍しいと思っていたのだが、どうも次の手に詰まっていたわけではないらしい。
「それはどういう根拠を持って仰った言葉でしょうか?」
断定の形で紡がれた言葉にはそれなりの根拠があるはずだ。問うと彼はオセロの駒を弄る手を止めて顔を上げた。
「昨日、喫茶店に居ただろ」
その言葉に目を瞠る。
古泉一樹という人物は品行方正で礼節正しく、常に笑顔を絶やさない、そしてプライベートな部分は謎に包まれているという設定になっている。彼女――涼宮ハルヒがそういった設定を望んだ故である。当然だが古泉一樹に恋人と呼べる特別な存在など設定されているわけは無く、下手な誤解は生まないよう常に気をつけてはいるのだ。そう、彼女と入った喫茶店も、通学範囲からはほどよく離れた場所だった。
なぜという疑問を察したのか、彼は目線を逸らして近くで買い物をしていたんだと言った。覗き見たようで悪いと思ったのかもしれない。
「それは確かに僕ですが…彼女はあなたの言うような方ではありませんよ」
「それはどういう意味だ。毎度回りくどい言い方しやがって」
「それはすみません…。そうですね、彼女は血縁は無い僕の母親のような存在です」
にこりと笑って手品のタネを見せるようにしてみせると彼は呆けたように目を瞬かせた。
「…随分と若い―――」
「酷い童顔なんです」
疑うような言葉に即座に言葉を被せる。実際彼女の実年齢を僕は知らないのだが、彼女が童顔なのだということは事実だ。時たま自分のほうが年上に見られることもあるのだが、彼女は世話になる前からあの容姿なので仕方が無い。
「部室に来たときからどうも上の空のような気がしていましたが…そのことを気にしていらっしゃったんですか?」
彼は常に対する人を安堵させるような緩やかな空気を纏っている。それを、今日は感じなかった。自分のことが原因かと思うとなぜだろう、嬉しいと思った。つい顔を緩ませると彼は顔を顰めてみせた。
「お前に特定の存在が居たのなら俺は今まで嘘をつきまくっていたんだなってちょっと罪悪感に苛まれてただけだ」
「嘘?」
「お前に彼女はいないって聞いてきた女子連中に言ったんだ」
彼はそう言って、オセロの駒を盤上に置く。白が一枚ひっくり返る。それを見ながら、そういうことですか、と僕は笑った。
転校早々、彼女にしてくれといった申し出を受けたことは一応無いが、それでもクラスの女子から好意の眼差しを向けられていることは肌で感じている。ただ、今まではそこまでだった。それが、彼の存在というワンクッションを置くだけでこうも変化があるとは。

「僕にそういった特定の存在は許されていません」

パチリとオセロの駒を盤上に置く。黒を一枚返したが、まだ盤上の色は白黒半々といったところだった。
顔を上げると、向かいに座した彼がなんだそれ、と呟いた。普段あまり見ない顔で。
「言葉のままです」
彼の濃い色の眸が複雑な色を浮かべ始めるのを認めて、だからあなたが罪悪感を感じるようなことはありませんよ、と付け加えた。途端、その色は行き場を失ったように霧散してゆく。
嘘はついていない。古泉一樹という存在は常に本心を見せず謎めいたものでなければならない。特定の存在は不要で、許されてはいない。そういう設定なのだ。ただ、彼はそういった”設定”を快く思っては居ないようだった。
死の概念がないと言ったときも、彼は今のような複雑な色を浮かべた眸を見せた。

「そうかよ」

彼が不機嫌そうに呟いて次の駒を置く。盤上は端を取られて見る間に半分以上黒に染まってしまう。
それを見つめて僕は苦笑した。

『楽しそうね』

思い出したのは昨日の彼女の言葉。

盤上のどこに白い駒を置こうか散々迷って置いた先、情け容赦なく彼が端からそれを黒に変えていく。彼との勝負は毎回自分の大敗で終了するのだが、今日も間違いなくそうなりそうだと思った。だというのに、それをつまらないと思ったことは無い。
彼は一度として同じ手を打つことはなく、それは毎回違った顔を見せて思いもよらぬところから戦局を変えてゆく。それが新鮮だと思った。彼がこんな風に毎日違う手でボードゲームに興じたり、いつもと違う話を向けてくれることを、明らかに自分は楽しく思っていた。
―――この世界を管理する側の存在の癖に。

「キョン! 古泉君! みくるちゃんに新しい衣装をプレゼントしようと思うの、何がいいかしら?」
「お前はまたそういう勝手なことを」
「バニーとメイドときたら次はやっぱりナースかしら。みくるちゃんは素材がいいからなんでも似合うわね!」
「仰る通りかと」
「お前少しはまともに意見というものを!」
「あ、あの、涼宮さん…それはっ」

困りますぅという舌足らずな朝比奈みくるの言葉を無視して我らが神様はナース服を彼女にプレゼントすることを決めたようだ。高らかに宣言したのを諌めようと彼が椅子から立ち上がろうとしたところで唐突に世界の光が消え去った。

「………っ」
「本日も営業終了ですね」

ピシリと音を立てて固まった彼の横で冗談交じりにそんな風に言ってみせた。
世界は灰色のそれへと変質していた。



部室に残ったまま建物の下敷きになるのも嫌だという彼の意見を汲んで、残り僅かな世界を二人で歩く。世界が灰色に染まって人が皆無な以外は特に変わったところなどないというのに、彼はどうも落ち着かないようだった。聞けば、やはり慣れないのだという。最初からこの世界に居た自分にとっては慣れる慣れないもない世界だ。最初からこうで、いつ来るかとも知れない最後まで、こうだと思っていた。
―――――彼がここに来るまで。

「…さみしく、ないのか?」

唐突に、彼が僕に問いかける。その言葉に、僕は息を呑んだ。
すぐに答えればよかったものを、それより先に頭に浮かんだのは別の言葉だった。
なぜ、そんなことを聞くのだろう、と。
困ったように呼びかけると彼は莫迦なことを聞いたとばかりに口を噤んでしまった。だから僕は、その問いの意味を聞く機会を逸してしまった。
仕方なく諦めて、見開いた眸を瞬いたその拍子に笑みに切り変えいつもの笑顔を浮かべる。
「僕はこの灰色の世界を一人きりで見守るだけです。一度だって、寂しいと思ったことはありません」
それが常で、唯一普遍の僕の日常だった。それだけが揺らぎのない事実。寂しいだとか、そんな感情は持ち合わせては居なかった。
―――――だというのに。

さみしくないのかと問われて、答えにつまった。
そこは笑って「どういう意味ですか」と聞き返すべきだった。
なのにそれが出来なかった。

その意味を、自分が一番わかっているからだ。

「あなたは…例えば、そう。水に投げ込まれた一粒の石のようですね」
投げ込まれた瞬間水面が波紋を描くように、その影響はどこまでも広がってゆく。その波紋は、世界をどのように歪めていくのかはわからないけれど僕はもう、それに捕まってしまった。

勝負するたびに変わる盤面も、かけられる言葉のひとつひとつも。
狂うことすら忘れてただ在る四日間を繰り返していたときとは違う。
一度として同じものはなく、二度同じことは起こりえない。

例えばそう、天から降り注ぐあの光のように。
彼は僕にとって、知ってしまった光に等しいと思った。

「寂しいだなんて、そんなこと。あなたが来なければ、それを知ることも──────」

そう、きっとなかった。

もう一度、彼がいなくなりこの囚われた四日間に在り続けなければならなくなれば、きっと僕は狂うことすら待たずに壊れるだろう。
耐えられない。
きっと。

まともに笑うことすら出来ずに呟いた最後の言葉は、恐らく彼には届かなかっただろう。
世界はすぐに暗転していった。

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