カミサマの夢見る四日間 ( 5 )
「ふぁ…」
こみ上げる衝動に抗えずに大口を開けて欠伸をする。滲む涙で視界が霞んだが歩き慣れた通学路なので特に転ぶようなこともなく、だるい身体を引きずりながら俺はいつもの坂を上っていた。
今日は一日目だ。繰り返される四日間の最初の日。あの灰色の空間が崩壊したのが昨日で、いや、俺の感覚で言うならそれは数時間前だ。通常世界崩壊の直後時間は一日目へと遡るわけだが、俺の感覚では世界が崩壊して視界が暗転した後、すぐに目覚ましのけたたましい音が耳元でなり始め起床を余儀なくされるのである。睡眠はきちんと取れてるんだろうかね。
「相変わらず眠そうね」
耳慣れた声が鼓膜を打つので振り向くと、すぐ後ろに長い髪を風にふわりと靡かせた谷口曰く美少女ランクAA+のクラスメイトが立っていた。朝倉涼子だ。その姿を見て珍しい、と俺は一度目を瞠った。今まで朝の登校時に朝倉に声をかけられたことは一切無かったためである。まぁこの四日間、全てが全て同じ繰り返しというわけでもないようだし、たまにはイレギュラーなことがあるというのは、これまで俺がここで過ごしてきた短い時間でも判断できた。
これは珍しいケースなんだろう。
おはようと挨拶する朝倉に同じように挨拶を返して、隣に並んで歩く。他愛ない話をしながら笑う朝倉は、口元に手を当てて控えめに笑みを零すのだが、その仕草は可愛らしい。朝比奈さんとはまた違ったタイプの美人だ。美少女ランクがどうのとかには全く興味は無いが、谷口の女子を見る目だけはまぁ尊敬しておこうと思った。
「あのね、ちょっと聞きたいことがあったんだけど…」
話が途切れたところでそう言って朝倉は俺を見た。ああ、それでと思った。朝倉は遅刻間際に登校する俺と違い早めに登校していることが多い。もしかしたらその聞きたいこと、ってのがあったために今日は登校時間を遅らせたのかもしれない。なんだ、と目線を向けると朝倉は少しその首を傾げてみせた。
「あのね、古泉君って付き合ったりしてる人いるのかなぁって。知らない?」
俺はその言葉に条件反射でため息を吐きたい気分になった。なんでって、こういった質問は俺にとって初めての経験ではなかったからである。古泉一樹という男と知り合ってから、何度女子にこの類の質問を受けたことか。思わず俺は「朝倉、お前もか」と名台詞のパクリを口にしたい気分になった。まあ俺は谷口みたいに女子の関心が自分に向かないことに激しく嘆いたりはしないが、古泉の知り合いというだけで質問攻めにされるのは非常に有り難くない。お前の存在自体が迷惑だ、古泉。その場に居もしない相手に文句を連ねかけてハタと俺は気づいた。
今日は一日目だったはずだ。
「こい、ずみ…?」
喉の奥で絡まりそうになる声を無理やり押し出すように、朝倉が言った名前を繰り返した。
古泉が、いる?
今日はあいつが転校してくる前の日じゃないのか?
繰り返す四日の中で、古泉が転校してくるのは二日目だったはずだ。今日じゃない。
だけど、朝倉はそうよ、と笑う。
「SOS団の古泉君」
念を押すようにもう一度名前を言う朝倉の声は俺の頭を擦り抜けて、どこか遠くで響くように聞こえた。
朝倉と別れて学校に着いた俺が早々に向かったのは一年九組の教室、古泉のクラスだ。始業間近で登校してきたばかりの生徒も多い廊下を擦り抜けて、早足で教室へ向かう。足が夢の中みたいに縺れてうまく動かない。やっと辿り着いた先、教室の入り口で話し込む生徒の隙間からその中を除き見ようとして、それより先に肩を叩かれた。後ろからかかった声は同級生にしては珍しい敬語での言葉。まさか、と振り返ってそこで俺は固まった。
「…こ、いずみ?」
幽霊でも見るような心地でその名を呼んだ。幽霊にしてはあまりにリアルで不気味なほどだ。――――いるはずのない人間が、いる。
「戸惑って…いらっしゃいますね」
苦笑するように古泉は美形と評判の端正な顔を歪めてみせた。声はどこまでも平静で、動揺を押し隠せていない自分とは対照的だ。それに少しばかり、苛ついた。管理人だからだろうか。当たり前だろう、と答えながら自然に眉間に皺が寄るのがわかった。
「お前が転校してくるのは二日目じゃなかったのか」
繰り返す四日間で古泉が転校してくるのは二日目だ。毎度毎度一年の五月だなんて微妙な時期に転校してきてはハルヒの興味を引くのがお前の役目だったんじゃないのか。問うと古泉は虚をつかれたように目を見開いた。なんだ、その反応は。
「いえ…その、僕の転校を基準にしていらっしゃるとは思わなくて」
驚きました、というように琥珀の眸が瞬いて、俺を見る。最初すぐに理解できなかったその言葉の意味を理解したとき、俺は軽く自分の無知に羞恥を覚えた。
古泉が転校してきたのは二日目だが、今日がその二日目の前日だという証拠を俺は何も見ていない。
今日がループする四日間の一日目だと思って、わざわざ日付なんか確認しなかった。必要がないからだ。そして、朝倉があんなことを言うまで、どこかで小さな違和感を感じながらも俺は全くこの事態に気付いていなかったのだ。よく見ていれば、朝食のメニューも、点けっぱなしのTVの内容も違ったかもしれないというのに。
「どういうことだよ」
今日がいつもの一日目でないことはわかった。だがそれならなら一体今日は何だというのだろう。あるはずのない五日目だとでも言うんだろうか。
古泉は肩を竦めただけだった。僕にもわかりません、と。なんだそれ。
「前回の四日目、僕は確かにあの灰色の空間が崩れるのを見届けたましたし、それは貴方も見たはずです。だというのに、今朝は一日目ではない。貴方の認識を借りれば僕が北高に転校する前の日ですね。いつもとは違う、それだけしか僕にはわかりません。僕は今朝北高に登校することに何の疑問もなかったくらいですから」
貴方が来て、初めておかしいと思ったくらいですよ、と笑う。――――その笑顔が気に入らない。
「…所詮、俺たちはあいつの夢の中の駒にすぎないってことか」
言いすぎだ、そうは思ったが既に口から零れた言葉を訂正なんかできない。いや、する気もなかった。俺たちはハルヒの思い一つで動く都合のいい登場人物だ。
「………あなたは、違いますよ」
教室の戸口に背を預けて、吐息をつくように古泉が言った。
どこが違うって言うんだ。俺は結局ここに閉じ込められたまま、帰り道すら見えないってのに。
文句を言い募ろうとして、だけど鳴り響いた本鈴がそれを遮る。古泉に言うのは見当違いだと、たしなめられている気がした。
「僕もあまり事情に詳しくはありません。放課後、そちらの専門の方と話しましょう」
専門って誰のことだ。そう聞こうとしたが、教室に傾れ込む生徒に隔てられてしまい結局この話はここで打ち切りになった。最後に古泉が「放課後、部室で」と口にしたのが、辛うじて聞こえた。
教室に戻ってから漸く俺は日付を確認した。黒板に白チョークで書かれた日付は前と近かったが、確かに古泉が転校してきたゴールデンウィーク明けではなかった。試しにハルヒに適当な理由をつけて日付の確認をしたが、そうよの一言で終
わった。常識と言わんばかりだ。
「それよりも! 今日はいいことを思いついたのよ。なんだかかつてないほど頭が冴え渡っていてね!」
そりゃー今までと違って今日は繰り返し続けた四日間ではないだろうし、繰り返しに飽きた脳も活性化するだろうさ。まあそんなことを口にしても自分が頭の悪いやつに思われるだけなのでそれは口にしない。
「ほどほどにしておけよ、お前の思い付きは大抵周りが迷惑を被ると相場が――――」
「私はちょっと遅れるけどキョン! あんたまた来なかったりしたら罰金よ! 勿論遅れてもね!」
自分の話を完全にスルーしてハルヒは声を張り上げる。常々思うがこいつは人の話を聞こうという気のないやつだ。というか自分にとって都合の悪い話は耳に入らないタイプだな。俺のため息はハルヒには届かなかったようだ。ハルヒは満面の笑顔で眸をキラキラさせていた。
そしてその日、久しぶりに内容の進んだ授業に俺はさっぱりついていけず、ひたすら教師の解答を求める目から逃れて過ごした。国語は兎も角基本も学んだ覚えのない数学の公式の応用なんぞ出来るか。だが早々に授業放棄をしては教師の目の敵にされるのは明白であり、故に俺は教師の目に付かないほどには一生懸命なふりをして、わけのわからん板書きを丸写しして今日の授業はあっという間に終わった。人間物事に集中すると時間の流れが早く感じるというのは事実だったようだ。もっとも、こんなことで確認などしたくはなかったが。
兎も角、毎度だらけている脳をかつてないほどに酷使したためか俺は少々オーバーヒート気味だ。こんなときは本来なら真っ先に帰宅して自室のベッドで惰眠を貪りたいところだが今日だけはそうもいかない。
――――放課後、部室で。
古泉はそう言った。
ここに誰かこの事態の説明でもできる専門家とやらを連れてくるんだろうか、と俺は文芸部室のドアを前に首を傾げる。果たしてこの世界のカミサマ的存在であるハルヒの占有基地でそんな説明なんぞできるんだろうか。今日はたまたま遅くなるとは言っていたが…などと考えながらドアノブを回し古臭い部室の扉を開けて、そこで俺は固まった。
「………」
扉が開いたことに気がつき振り返った天使が吃驚眼でこちらを凝視している。その格好は水浴び中の天女を盗み見てしまった後ろめたさを覚えるような格好、というか単純にお召しかえ中であったようで。
「す、みませ、ん!!」
そう言った自分の声と、条件反射のように閉めた扉と、部屋の中でひゃああと気の抜ける悲鳴を天使が上げるのが同時だった。
「おや、朝比奈さんが着替え中ですか?」
丁度俺が一連の動作に一息ついてばくつく心臓を押さえていたとき、なんとも嫌味なほどのんびりした声がかけられた。見なくてもわかる。スマイル0円爽やか男古泉一樹である。
俺が戸を閉めてから現れたくせになんでわかるんだ、超能力者かこいつは。
疑わしげな視線を向けると古泉は苦笑して俺の隣に立ち、同じように戸に寄りかかって言った。
「…あなたには記憶がないでしょうけど、僕はここで彼女がメイド服を着るに至った経緯と彼女がここで着替えていること、そしてそれらが常識化している事実を記憶として植えつけられていますので」
だからこれは僕にとっては日常茶飯事なんですよ、と。
引っかかる物言いをするやつだ。どうせ俺は外の人間なんだと自覚せざるを得ないような、そんな――――。
「すみません、お待たせしました」
何か言ってやろうと口を開こうとしたところで、背を預けた戸の向こうから控えめな声がかけられる。背を離すのと同時にそっと扉が開かれ、長いスカートにエプロン姿の朝比奈さんが現れた。この世に彼女以上にメイド服の似合う女性が居るだろうか、いやいない、などと思わず反語系で考えてしまうほど彼女にその衣装はよく似合っていた。朝比奈さんには悪いがハルヒの横暴さにも少しばかり感謝をしたい気分になる。いや、目の保養だからさ。
どうぞ、と言って部屋を示す朝比奈さんは、ふと俺を認めてその栗色の眸を瞬かせた。
「キョン君、ですよね…?」
問いかけて、戸惑うように大粒のその眸が俺を覗き込んでくる。
質問の意図がわからず俺は首を傾げた。朝比奈さんの質問ならば何でも答えて差し上げたいところですが、さて、どういった内容の質問なんでしょうか、それは。
「あれ? あたしがおかしいのかな…」
困ったように朝比奈さんは顔に疑問符を貼り付け、俺の隣に立つ古泉に気づいて救いを求めるような視線を向けた。なぜそこで古泉なんだ。古泉一樹という男ほど胡散臭い男もいないだろうに。
古泉は心得たというように笑ってみせた。ほらな、胡散臭い。
「朝比奈さんが違和感を感じていらっしゃるというのならやはり間違いはないのでしょうね。あなたの上司に当たる方に確認をしてみてください。それから長門さん」
古泉の呼びかけに部室を見ると、先刻までおとなしく椅子に座って読書に勤しんでいた長門有希が音も立てずにそばに立っていた。感情の色の読めない眸が瞬きもせずに古泉を見つめている。
現状の説明を、と古泉が言うと小さなおかっぱ頭はこくんと一度縦に振られた。
「前回の閉鎖空間終了から一ヶ月が経過しています。終了から今日に至るまでの時間の経過は――――ありま、せん…」
「どういうことですか?」
「前回の閉鎖空間終了時刻より一ヶ月後の空間を涼宮ハルヒは設定した。我々の記憶は情報操作があったと思われる」
天使だと見紛う如き可愛らしい上級生は時間管轄の管理人で、物静かな文芸部員は情報を統括する管理人なんだと、聞かされたのはついさっきだ。二人とも普通に可愛らしいただの女子だと思っていたって言うのに…なんだか夢を壊された気分だな。いや、もともとこれはハルヒの夢見る世界なんだから壊されるも何もないのか? などとどうでもいいことにツッコミを入れている横で、三人の話はすらすら俺を置き去りに進んでいるようだった。わけがわからん、説明を求めて俺はここに来たはずなんだが。
「つまりどういうことなんだよ」
俺に対する説明は一切なしのようで痺れを切らして問いかけると、管理人三人組は一様に困った表情を浮かべた。あの無表情もいい長門ですら、どうしていいのかわからないような眸を向けてくる。
「…僕たちが今わかるのは前回の世界崩壊から今回構築された世界までは時間の遷移が見られるということと、その間の時間の流れはなかったということくらいでしょうか」
「なぜそれがわかる?」
「あなたが、一ヶ月いないからですよ」
古泉は指摘するようにそう言った。
古泉によると、彼ら管理人には今日に至るまでの記憶が全て綺麗に詰め込まれているのだという。ただ、そこにイレギュラー因子である俺の存在は、前回の空間崩壊から今日までの一か月分綺麗に抜けているのだそうだ。
「なんだそれ」
「あなたがこの世界の影響を受ける存在ではないからでしょう」
だから記憶の操作も受けず、ゲストとしてこの世界に存在しているらしい。いや、だが待て、一ヶ月存在がなかったのを管理人三人組が気がついたのなら、他の連中も気づくんじゃないのか、普通。
「それはないでしょう」
「なんでだよ」
「彼らは管理人ではないからです。違和感を抱く役目は我々だけです」
クラスメイトや担任は俺の存在がなかったことになんか気づきもせず、それでいておかしな存在だという認識すら覚えずただ過ごすのだという。俺が最初この世界に迷い込んだとき、彼らが何も言わなかったのと同じように、だ。
「あなたは今のところこの世界に歓迎されているようですから」
今のところ、という台詞が恐ろしいなと思った。歓迎されていない存在ならば一体どうなるんだか。
その疑問には「僕らは神の意向に従うだけです」という素っ気無い古泉の一言が返された。その神の意向ってのはなんなんだろうね、あいつは何がしたいんだ。
「それは僕らにも…」
古泉の言葉に朝比奈さんも困ったように微笑み、長門もじっと俺を見つめて口を噤んだ。そこがわからないと元の世界に帰れないのにな。だがこの時間に移ったということは、この時間でのハルヒの望みがあるということだ。恐らく。俺は質問を変える事にした。
「この時間に移ったってことは、もう世界は壊れないのか?」
ハルヒが何をしたいのかはわからない。だが、ここであいつの願いが叶うなら、もうあの灰色の、胸が押し潰されそうな寂しい空間に残されることはないのだろうか。
その質問には古泉が首を振った。恐らくそれはありませんと。なぜわかるんだ。
「もうあの空間が必要ないというのなら、まず僕の存在が消えているはずです。僕がここにいるということは、僕の役目がここにあるということでしょう」
古泉の言葉は丁寧で、だけど最初から最後までどこか冷たい印象を受けた。
自分の存在が消えるだとか、なんでそんなに簡単に言ってしまえるんだろうか。自分はこの世界の管理人だからだとか、神の意向に従うだけだとか、そこに古泉の意志は存在しない。見た目普通の人間にしか見えないやつがそんなことを言うのを俺はなんだかとてつもなく腹がたつと思った。いや、そんなことを思う俺の方がおかしいのか?
そのとき俺はどんな顔をしていたんだろう。言葉を紡いだ古泉は俺を見て少し困ったように肩を竦めた。
「おっ待たせ!」
ドン、と蹴破るような勢いで部室の扉が開かれる。と同時に、キラッキラに――そりゃあもう七色レインボーも吃驚なほど――笑顔を輝かせた、話の渦中の人物が現れた。
見れば、いつの間にか長門は自分の指定席で読書をしており、古泉も何事もなかったようにハルヒに笑顔を振りまいている。俺と朝比奈さんだけぼうっと突っ立っていて、だがハルヒはそれには目もくれなかった。朝比奈さんは慌ててお茶の準備を始め、俺はなにやら消化しきれないもやもやしたものを抱えたままハルヒを見る。神様には到底思えない、どこにでもいる少女だと思った。病室で寝たきりのこいつを見ていなければ尚更そう思ったところだ。古泉や、長門、朝比奈さんには後光のさす仏様に見えたりでもするんだろうかね。いや、ハルヒの場合は仏様より荒らぶる神様ってところか。
ハルヒは部室に飛び込んできた勢いのまま、薄っぺらい紙切れを一枚俺たちに突きつけてきた。
なんだよ、と聞くよりも先にわかった。今朝教室で口にしていたいいことというのを持ってきたのだろう。ニコニコとした全開笑顔のままハルヒは高らかに宣言した。
「野球大会に出るわよ!」